共同研究

台湾の「海女(ハイルー)」に関する民族誌的研究—東アジア・環太平洋地域の海女研究構築を目指して—

「海人」から「海女」へ

日程:2018年8月7日(火)~8月10日(金)
調査先:沖縄県久高島
調査者:新垣夢乃

1.「海人」から「海女」へ

 台湾島東北部の新北市淡水区興化店から基蘭県頭城鎮頭圍までの海岸並びに澎湖諸島には石花菜(テングサ)が分布している(1)。この石花菜は、台湾の「海女」たちの重要な漁獲対象の水産物となっている。
 台湾島東北部での石花菜漁は、1890年代頃にはすでに行われていた。当時の石花菜漁は、沖縄県から来た出稼ぎの人々によって行われていた。石花菜は毎年4月から8月頃に漁期を迎える。それにあわせて毎年5月頃に沖縄県から人々が台湾へ渡り、8月頃まで漁を行っていた。当初は、季節的な出稼ぎ漁であったが、1899年には社寮島(現在の基隆市和平島)に集落を形成するようになり、沖縄県の漁業者が定住するようになった。最も初期に社寮島へ移住したのは久高島の人々であり、その後、糸満、宮古、八重山、平安座の人々が続いた。1921年にはこの社寮島の沖縄県人集落は300人程度の人口を有するに至り、石花菜の漁期には沖縄県からの出稼ぎの人々によって500人余の人口に膨れ上がるようになった。これは植民地期の台湾における最大規模の沖縄県人集落であった(2)
 沖縄県の人々は、3、4人で1艘の丸木舟を操船し、潜水によって石花菜を採取していた(3)。その漁撈技術が次第に地元の人々に伝えられた(4)。そして、現在の台湾島東北部の「海女」たちの間には、このときに伝わった技術が現在の「海女」たちの基礎となったという言説が存在する。そのことを裏付けるように、台湾島東北部の「海女」たちが使用する水鏡(zui-gia)と呼ばれる水中メガネは、沖縄の潜水漁で用いられるミーカガンと同型の物である。
 この技術の伝達過程と自らの起源に関する言説からみると、台湾島東北部の「海女」たちの起源は日本にあるということになる。これは、一般に流布する「海女は日本と韓国に特有の文化」という言説とも合致する。だが、台湾島東北部の「海女」たちに技術を伝えた沖縄県には、潜水漁の技術や女性たちの漁撈技術は存在するが、海女(アマ)という言葉は存在しない。一般的には、潜水漁も含めて漁を行う人は「ウミンチュ(海人)」、沿岸の浅瀬で漁を行う人は「ウミアッチャー(海歩き)」などと呼ばれる。つまり、海女ではない「海人」に教わった人々が「海女」と呼ばれるようになったという不思議な現象がみえてくるのである(5)

■ 写真1 沖縄県久高島の内間家のミーカガン  ■ 写真2 新北市貢寮区澳底の陳簡份氏の水鏡

■ 写真3、4 社寮島に住む沖縄県人の潜水漁を伝える新聞記事(左は『台湾日日新報』1926年8月29日:5面、右は『台湾日日新報』1926年8月28日:5面より引用)

2.「琉球海女」と「内間長三」

 この不思議な現象を読み解き、台湾島東北部の「海女」たちの歴史的経緯を明らかにするためには、台湾に漁撈技術を伝えた沖縄県側の人々について調査を行う必要がある。現在、台湾島東北部の「海女」に漁撈技術を伝えた沖縄県の人々については、二つのルートが考えられる。
 一つが、沖縄県の女性から台湾の女性へと技術が伝えられたルートである。現在のところ、社寮島やその周辺地域において沖縄県の女性が漁を行っていたという資料は存在しない。しかし、1935年に台湾で刊行されていた俳句の同人誌に基隆在住の芳仲という人物によって「炎天に琉球海女は裸足なる」という句が投稿されている(6)。先述したように、基隆市の社寮島には沖縄県人の集落が存在しており、作者の芳仲も基隆在住であるため沖縄県の女性たちを日常的に目にしていたと考えられる。その女性たちをあらわす「琉球海女」という言葉が、当時の基隆において一般的に用いられていた言葉なのかは不明である。だが、わざわざ「海女」という言葉が用いられていることから、これが基隆地域において何らかの漁撈活動を行っていた沖縄県の女性たちをあらわしているものと考えられる。そのため、この「琉球海女」が台湾の人々に漁撈技術を伝えた可能性がうかがえる。しかし、どのような女性がいて、どのような漁撈活動を行っていたのかなどは資料が乏しいため、現在のところ具体的な状況は把握できていない。
 二つ目の可能性は、久高島の人々が台湾の人々に漁撈技術を伝えた可能性である。これについては、すでに現在の基隆市和平島では「琉球漁民慰霊碑」や地元の小学校が地域教育のために作成した『和平島上原住民的傳節説 凱達格蘭族』などによって顕彰や資料の掘り起こしが行われている。それによると、植民地期に台湾の人々に漁撈技術を伝えた人物として久高島出身の「内間長三(うちま ちょうぞう)」という人物が取り上げられている。この内間氏は、社寮島の人々に潜水漁、カゴ漁、漁船の操船技術、航海や位置特定のために必要となる海流や星座の見方などを伝えたという(7)。具体的にどのような潜水漁技術が、台湾のどのような人々に伝えられたのかは不明である。しかし、この内間長三氏が伝えた漁撈技術が台湾島東北部の「海女」の基礎となった可能性は考えられる。

■ 図1 1944年の水中メガネと現在の水鏡
(左側は、1944年に国分直一が宜蘭県南方澳の「沖縄漁民村」で収集したもの[国分直一 「蘇澳南湾 南方澳の民俗」『台湾の民俗』岩崎美術社、1968年:219頁]。右側は、澳底の簫蔡碧珠氏所蔵[藤川美代子氏撮影])

■ 図2 1944年のあわびぶくろと現在の石花菜袋
(左側は、1944年に国分直一が宜蘭県南方澳の「沖縄漁民村」で収集したもの[国分直一 「蘇澳南湾 南方澳の民俗」『台湾の民俗』岩崎美術社、1968年:219頁]。右側は、澳底の簫蔡碧珠氏所蔵[藤川美代子氏撮影])
■ 図3 1944年のたこかけと現在の石居鈎
(左側は、1944年に国分直一が宜蘭県南方澳の「沖縄漁民村」で収集したもの[国分直一 「蘇澳南湾 南方澳の民俗」『台湾の民俗』岩崎美術社、1968年:219頁]。右側は、澳底の簫正義氏所蔵[藤川美代子氏撮影])


3.久高島での調査

 このような台湾での調査状況を受けて、具体的に沖縄県人と台湾の人々との間でどのような技術の伝達があったのかを明らかにするために内間長三氏について追跡調査を行った。
 今回の調査では、NPO法人久高島振興会の西銘武良氏に内間長三氏にゆかりのある内間新三氏、内間長一氏の奥様をご紹介いただいた。内間新三氏の父親は、内間長三氏の船の乗組員であり共に台湾で漁を行っていた人物である。また、内間新三氏の母親は、内間長三氏の娘である。さらに、内間長一氏は内間長三氏の孫にあたる人物である。
 今回の調査によって、戦前の久高島の人々の漁撈活動のサイクル、内間長三氏の大まかな足跡がみえてきた。戦前の久高島では、宮古諸島、八重山諸島への出漁が盛んにおこなわれていた。そこでは、出漁先に拠点を構え近海と沿岸海域で漁を行っていた。近海では夏はカツオ釣り、冬はカジキの突き漁をメインに行いながら、ひき縄漁なども行っていた。さらに沿岸海域では潜水漁、カゴ漁などを多様な漁撈技術を持って漁を行っていたという。さらに、久高島の人々は東沙諸島(プラタス諸島)での海人草漁にも携わっていたという。
 内間長三氏の生年や台湾へ渡った時期については不明である。内間長三氏は、当初、八重山諸島を拠点に漁を行っていたという。そして、八重山諸島でも屋敷を構え何隻かの漁船を持つようになった。さらに、そこから台湾の基隆へ渡ったというルートをうかがうことができた。そして、基隆にも屋敷を構え、3隻の漁船を有するようになり、地元の沖縄県人社会の顔役の一人となったという。1937年に台湾で出された許可漁業一覧のなかに内間長三氏の名があり、基隆市在住で「第三重■(判読不能。寶か、實か)丸」という船の船主となり台北州沿海での珊瑚漁業を行っていることがわかる(8)。基隆では地元の人々からも尊敬をあつめており、尊敬の意を込めて内間長三氏を久高島のシマナー(各人をあらわす名前の意)で「ヤマゲーオジー」と呼ばれていたという。内間長三氏は自身の漁撈技術を久高島の方言で、台湾の人々にも惜しげもなく教えたという。具体的には、ひき縄漁の疑似餌にマンビカー(シイラ)の皮を使う工夫などの技術を教えたということである。しかし、漁撈技術は惜しげもなく教えても、具体的な漁場については教えなかったという。戦後になって内間長三氏は台湾から沖縄へ引揚げて来て、久高島で晩年を過ごし、漁も行っていたが戦後5年が経ったころに亡くなったという。没後も台湾から久高島に線香を供えにくる人がいたという。
 今回は突然の訪問にもかかわらず、久高島の皆さんには大変お世話になりました。短い時間ではありましたが、内間長三氏が台湾でどのように活躍したのか、そして実際に漁撈技術を台湾の人々に伝えたということが確認することができました。本当にありがとうございました。

(1)張秀俊「臺灣之石花菜及洋菜」『臺灣之水產資源』臺灣銀行、1951年:50頁。樊恭炬「臺灣省之石花菜及翼枝菜」『臺灣省水産試驗所試驗報告』40年度、臺灣省水産試驗所、1952年:12頁。
(2)劉珮君編『和平島上原住民的傳節説 凱達格蘭族』基隆市和平國民小學、2003年:25頁。『台湾日日新聞』1907年3月26日:4頁。又吉盛清「台湾」『沖縄県史』各論編第5巻近代、沖縄県教育委員会、2011年:412頁。
(3)『台湾日日新報』1906年9月11日:4頁。
(4)『台湾日日新報』1935年5月29日:8頁。『台湾日日新聞』1937年6月13日:2頁。『台湾日日新聞』1935年5月6日:2頁。
(5)今回の現地調査で見えてきたことであるが、台湾島東北部の「海女」たちも、通常の生活のなかでは「海女」という言葉を自称することはないようである。2018年8月20日から9月5日までの期間に調査を行った藤川美代子氏からの情報によると「海女」の自称については次のような複雑な状況が存在するという。基隆市八斗子や和平島では石花菜漁を行うが、自らは専業ではなく潜らないので海女ではない、本当の海女は新北市貢寮区澳底にいるなどと言う。しかし、澳底で潜水により石花菜漁を行う女性たちは「家庭主婦」や「去海拿東西(海に行ってものをとる)」と自称する。一方で、それらの女性たちは、基隆市の街中に設置されている案内板、同地にある国立台湾海洋科学技術館などでも「海女」という文言で紹介されている。また、テレビや雑誌などのメディアも彼女等を「海女」と紹介している。「海女」として紹介された女性たちも、自らが紹介されている雑誌記事などを大事に持っており来客があるとその記事を見せて自慢することもある。さらには、「海女」たちが経営する石花菜凍(寒天)の屋台にも、「海女」という言葉を用いて宣伝がなされている。それらのことからは、現在の台湾においては「海女」という呼称がもつ複雑な状況がうかがえる。
(6)『ゆうかり』15巻9号、ゆうかり社、1935年:14頁。
(7)劉珮君編『和平島上原住民的傳節説 凱達格蘭族』基隆市和平國民小學、2003年:25頁。
(8)「免許漁業及許可漁業」『台湾水産雑誌』266号、台湾水産協会、1937年:23頁。

(文責:新垣夢乃)

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