共同研究

戦前の渋沢水産史研究室の活動に関する調査研究

香川県坂出市における調査概報

日程:2015年12月11日(金)
調査先:坂出市塩業資料館、鎌田共済会郷土博物館
調査者:星洋和

写真1 鎌田共済会郷土博物館

写真2 阪出墾田之碑(坂出市指定有形文化財)

 星洋和は、戦前に楫西光速が調査に赴いた香川県坂出市にて現地調査を行った。
 楫西が最後に書いた論文は、「坂出塩田開墾事情—久米栄左衛門塩業事蹟—」(日本塩業研究会編『日本塩業の研究』第7集、以下「坂出塩田開墾事情」)と言われている。同書によれば、楫西は1941年の秋に瀬戸内海沿岸の塩田を視察した途中で坂出に立ち寄った。そして、現地の郷土史家である岡田唯吉(ただきち)から資料を見せてもらい、その成果をまとめたのが「坂出塩田開墾事情」なのだという。そこで調査者は、楫西の書いた論文への理解を深めるために、坂出市にて行われていた塩田について調査を行った。具体的には、坂出市塩業資料館と鎌田共済会郷土博物館などの見学などである(写真1)。
 調査の結果、見えてきたのは、久米栄左衛門(通賢)による塩田の開発が坂出の発展に大きな影響を与えたということである。19世紀の初め、蘭学者であった久米が開発した塩田は、藩財政の立て直し、そして庶民の救済に大きく貢献し、その後の坂出市の発展のもととなった。また、久米が開発した塩田は明治以降、国から高い評価を受けることとなった。
 調査者は坂出市内の各地で、久米による塩田開発に関する史跡や、久米をたたえるレリーフなどを見た(写真2)。楫西が市内の塩田や、それに関する史跡なども見学したのかは不明だが、久米の影響が街に残っていることを、肌で実感したであろうことは想像に難くない。「坂出塩田開墾事情」では、久米の業績と執筆当時の日本製塩業との連続性が繰り返し主張されているが、瀬戸内海沿岸部の塩田の視察調査は、こうした表現の裏付けともなったのではないだろうか。本調査は、楫西の研究への理解を深めるにあたり大変貴重な調査となった。

(文責:星洋和)

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第2回研究会の開催と国立民族学博物館での民具調査概報

日程:2015年12月12日(土)13:00~17:30 12月13日(日)10:00~15:00
調査先:国立民族学博物館(大阪府吹田市)
参加者:加藤幸治、安室知、日高真吾、宮瀧交二、増﨑勝敏、佐藤智敬、葉山茂、揖善継、星洋和、岡田祐子(国立民族学博物館保谷資料プロジェクト室)

国立民族学博物館での筌の資料熟覧

研究会の様子

 共同研究「戦前の渋沢水産史研究室の活動に関する調査研究」では、2015年12月12日~13日、国立民族学博物館において標本資料の熟覧調査と研究会を実施した。
 12月12日は、同館所蔵のアチックミューゼアム収集の民具のうち、事前に申請した筌およそ100点を出していただき、標本資料に付随する情報と管理ファイル上のデータの調査を行った。調査の主眼は、国文学研究資料館所蔵の筌調査関連資料との関係を探ることにあった。民具を一点ずつ精査し、また県別に抽出したり、旧文部省史料館から引き継がれたデータとの照合を試みたりと、全員で協力して調査を行った。結論的には、国文学研究資料館の資料と国立民族学博物館の標本資料とは、ダイレクトに結びつくものではないことがわかり、水産史研究室の通信調査は民具収集とは基本的に別の流れで進んでいたと推測できる。その国文学研究資料館の資料では、方言と形態の分布調査の成果がある程度見えていたことがうかがわれるので、今後はその調査の実態解明に注力しつつ、新たに得た民具の寄贈者・収集者のデータをもとに、アチックミューゼアムの民具収集において筌のコレクション形成にどの程度の意図があったかを考えていきたい。
 翌13日の研究会では、加藤幸治が「水産史研究室の通信調査について—宮本勢助の山袴通信調査を参考に—」、葉山茂氏が「祝宮静と内浦資料」、星洋和氏が「楫西光速について—戦前の活動と製塩業研究とのかかわりを中心に—」をそれぞれ発表し、話題提供とした。議論においては、水産史研究室の同時代の政治・経済との関わりが重要な課題として浮き彫りとなった。具体的には、農村更生運動や漁業法、昭和恐慌と農山漁村振興、共産主義的な実践などと関連付けながら、各メンバーが引き続き調査を行うことを確認した。従来のアチックミューゼアムおよび祭魚洞文庫のイメージが大きく変わる可能性を感じた。
 最後に、国立民族学博物館で長年アチックミューゼアムの研究をされてきた故近藤雅樹氏の蓄積してきた資料を、同館の「保谷資料プロジェクト室」にて閲覧し、岡田祐子氏の協力のもと本共同研究に関係するデータの提供を得た。

(文責:加藤幸治)

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塩業と筌の研究データの調査概報

日程:2015年11月2日(月)~4日(水)
調査先:塩事業センター塩業資料室、渋沢史料館、国文学研究資料館
調査者:星洋和(11月2日~4日)、加藤幸治(11月4日)、今井雅之(11月3~4日)

国文学研究資料館での調査

 共同研究「戦前の渋沢水産史研究室の活動に関する調査研究」に関して、共同研究メンバーの星洋和は揖西光速に関する資料調査をおこなった。
 揖西は戦後に活躍した経済学者で、アチックミューゼアム(1942年に日本常民文化研究所に改称)では、『下総行徳塩業史』、「明治年間に於ける枝条架製塩並に機械製塩」など、塩業について研究を進めていた人物である。今回調査者は、揖西の塩に関する著作と、戦前の動向について中心に調査を行った。
 11月2日は公益財団法人塩事業センター塩業資料室にて、揖西が執筆した製塩に関する論考やコラムを閲覧した。その中の多くは製塩技術の発展史に関するものであるが、調査者が特に興味を持ったのは、1942年に『海洋の科学』(日本海洋学会発行)に掲載された「塩の歴史」という論文である。戦時下において、塩は食料としてだけでなく、化学薬品や兵器を作るための資源としても大量生産が求められていた。『海洋の科学』の巻頭及び編集後記には、そうした戦時体制下における塩の重要性が説かれており、そのうえで「昔の製塩技術に就て文献を蒐集して居られる日本常民文化研究所の揖西氏に昔の塩の製造法を執筆して戴」いたという。渋沢水産史研究室のメンバーが持っていた水産業への興味・関心とは別に、戦時体制下に周囲が渋沢水産史研究室にどのような役割を期待していたのかを考える上でも、貴重な調査となった。
 11月3日は渋沢史料館にて、『竜門雑誌』(現在は『青淵』と改題)に掲載されていた「青淵先生伝記資料編纂所通信」から戦前の揖西の動向について調査を行った。揖西は、1938年からアチックミューゼアムへ参加したが、その翌年の4月から、渋沢栄一伝記資料編纂所へ入所したという。編纂所での揖西の役割は、渋沢栄一が関わっていた事業のうち、軽工業・水産業・中国に関するものの資料整理であったが、このうち、水産業は先に編纂所に入っていた山口和雄との分担であり、塩業については揖西が担当していたようである。数多くいたアチック同人のうち、編纂所へ参加していたのは、揖西と山口、そして藤木喜久磨であったが、彼らは渋沢や、渋沢の学友であり編纂所の主任でもあった土屋喬雄からどのような成果を期待されていたのか。それを明らかにするためには、彼らのアチックでの活動と編纂所での活動の両方を追っていく必要があると調査を通して実感した。
 11月4日は、加藤幸治、今井雅之と合同で、国文学研究資料館に収蔵されている祭魚洞文庫資料の閲覧・撮影を行った。今回3人が調査したのは、祭魚洞文庫収蔵の製塩・魚肥・筌などの水産業に関する資料であるが、特に興味深かったのは、アチックミューゼアムが報告書を刊行することなく幻に終わった筌の調査に関する資料である。アチックにおける筌の調査は戦時下の中で立ち消えとなったと言われているが、残っている資料を見ると、かなり詳細に筌の調査が進められていたことが分かった。十分な調査が進められることなく終わったとされるアチックの筌の調査であるが、彼らがやり遂げることができたものは何か、逆にやり遂げられなかったものは何か、残された調査資料から詳細に検討していく必要を感じた。
 今回の調査は、戦時下の揖西、そしてアチックミューゼアムの活動を考える上で貴重な調査となった。今後は、戦後の揖西の研究活動と戦前の研究成果の関連性についても調査を進めていきたい。

(文責:星洋和)

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吉田三郎関係資料の調査概報

日程:2015年9月29日(火)~30日(水)
調査先:神奈川大学日本常民文化研究所、宮本記念財団
調査者:今井雅之

宮本馨太郎日記

 共同研究「戦前の渋沢水産史研究室の活動に関する調査研究」に関して、共同研究メンバーの今井雅之は吉田三郎に関する資料調査をおこなった。
 29日は神奈川大学日本常民文化研究所にて、吉田三郎に関する過去の調査について報告を受けたのち、吉田が戦前に撮影した写真(アチックフィルム)を調査した。吉田は渋沢敬三から託されたカメラで自身の村(秋田県脇本大倉)を記録している。写真には戦前の農作業の様子や友人と思われるポートレートなどが写し出されており、戦前の吉田の生活を知る上で非常に貴重な資料となった。今後は現地の秋田に赴き、本資料を提示しつつ吉田についての聞き書き調査をおこなう。
 30日は宮本記念財団に残る吉田三郎関係資料の調査をおこなった。財団理事である宮本瑞夫氏の協力により、宮本馨太郎が晩年(昭和48年)に秋田の吉田三郎宅を訪ねた時の写真が発見された。保谷の附属博物館のメンバーはその多くが戦後離散し、吉田も秋田へ帰ることとなるが、吉田三郎と宮本馨太郎に関しては、両者の関係が完全に途切れたわけではなかったことになる。また、吉田が時折寄稿していた「アチックマンスリー」に関する調査もおこなった。吉田の文章が散見される昭和10年代前半には、漁業史部会のメンバーの文章も掲載されており、他の部会の研究状況が「アチックマンスリー」を通じて共有可能であったことが読み取れる。しかし瑞夫氏によれば、各部会間での直接的な交流は乏しかった。宮本馨太郎の日記には、宮本が渋沢敬三から豆州内浦の民具調査を依頼されたことが記されているが、これはついに実現しなかった。
 今回の調査は吉田三郎の戦前・戦中・戦後の立ち位置の変化について再考する機会となった。

(文責:今井雅之)

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豆州内浦における調査概報

日程:平成27年9月12日(土)~13日(日)
調査先:沼津市立歴史民俗資料館(静岡県沼津市)、沼津市内浦三津、西浦地区等
参加者:加藤幸治、磯本宏紀、今井雅之、葉山茂、増﨑勝敏

  ■写真1 大川家長屋門(沼津市内浦長浜・市指定有形文化財)     写真2 大川家での調査

  ■ 写真3 大瀬神社(沼津市西浦江梨)                写真4 網漁や漁船を描いた扁額絵馬の調査   

 
 共同研究「戦前の渋沢水産史研究室の活動に関する調査研究」では、平成27年9月12日~13日、静岡県沼津市において研究会と調査を実施した。今回の目的は、渋沢敬三が本格的に水産史研究に着手する決定的な契機となった伊豆内浦の大川家文書との“出会い”が、その後の水産史研究室における研究や彙報等の刊行物にどのように結びついていくのか、またアチック・ミューゼアムの若手メンバーが内浦の何に着目して研究を進めていったかを考え直してみることであった。そして内浦から始まる取り組みが、同時代においてどのような意義を持ち、渋沢敬三の意図はどこにあったのかなども、この研究会参加者の共通の課題であった。
 9月12日は、沼津市歴史民俗資料館にて、近年指定に至った国の重要有形民俗文化財「沼津内浦・静浦及び周辺地域の漁撈用具」の調査を行った。同館主査の上野尚美氏から、国指定の経緯や資料整理作業、現在抱えている課題、内浦の漁業の特質等についてのレクチャーを受け、その後展示資料を含めて民具を見せていただいた。このコレクションを通じて、内浦の漁業がこれまでよく知られてきたマグロ建切網漁や定置網のみならず、さまざまなコショウバイと呼ばれる雑多な網漁・釣漁等が存在し、またカツオ一本釣り漁の餌用としてのイワシの商いや水産加工業などもみられることがよくわかった。こうしたさまざまな稼ぎの総体が、内浦をはじめとする駿河湾のなりわいと生活を構成していることに気付かされた。
 研究会において議論となったことに、三陸の大謀網や富山湾の台網など、他地域との技術交流や人的交流がある。こうしたものは、アチックのメンバーのその後のフィールドの展開と関連する可能性もあり、『豆州内浦漁民史料』や彙報、メンバーの著作等を内浦との関係においてもういちど洗い直す必要があるという認識に至った。また、内浦の漁業に対するアチックのメンバーのアプローチは、あくまで経済活動の具体的な理解を史料とフィールドワークによって目指すものであり、必ずしも聞書きを中心とした民俗学的な手法を中心に据えているわけではない。このことは研究の意図や、ターゲットとする先行研究の位置づけなどに深く結びついていると考えられ、同時代の研究状況や内浦での仕事に対する評価等について再検討する必要が確認された。
 翌9月13日は、沼津市内浦から戸田地区の踏査を行った。まず大川家を訪問し、現存する資料を見せていただき、昭和初期の大川家の状況等についてうかがった。渋沢敬三に資料を託した大川四郎左衛門は、キリスト者であり同家にはイコン等の持ち物が現存する。その後、沼津市西浦江梨の大瀬神社にて造船時や豊漁時に奉納される扁額絵馬の現地調査を行った。これら資料からは、明治から大正期にかけて、静浦から内浦、西浦、戸田に至る駿河湾奥の諸集落で昭和初期に営まれた、大規模な網漁がいかに活況を呈していたかがうかがわれ、敬三らはまさにそうした時期にこの地を度々訪れていたこともわかる。加えて、この地が漁村である以上に上流階層の人々にとって重要な保養地であったことも見逃せない。敬三の大川家文書との“出会い”は決して偶然の出来事ではなく、様々な状況の結果としてとらえ直す必要もあるように思われた。
 今回の2日間の研究会と調査は、『豆州内浦漁民史料』について再考する機会となった。

  ■写真5 鯨塚(安房勝山板井ヶ谷)                  ■写真6 農村青年共働学校跡地(裾野市葛山)

 
 この研究会に合わせて、共同研究メンバーの磯本宏紀と今井雅之は、それぞれアチックのメンバーについての調査を行ったのであわせて概要を報告する。
 磯本は、13日に千葉県立中央図書館において文献調査を14日に千葉県鋸南町勝山、保田地区で巡検を行った。文献調査では、『千葉県漁業図解』やアチック同人の山口和雄に関連する文献の調査を行った。巡検では、同地域の漁港、山口和雄が通った保田小学校跡、鯨塚等の調査を行った。千葉県鋸南町は、山口和雄が両親とともに移り住み、中学校卒業までの幼少期を過ごした地域である。また、昭和10年7月に山口自らが調査地を選定して行った漁業史調査の対象地域でもあり、その成果は、アチック・ミューゼアムノートとして『明治前期を中心とする内房北部の漁業と漁村経済〔見聞記〕』上・下巻が昭和10・11年に刊行されている。同地域での調査は、山口和雄の研究や人物像を理解する上で意義深いものである。
 今井雅之は10日から11日にかけて、吉田三郎が昭和3年に卒業したとされる「富士山麓の農村青年共働学校」についての調査をおこなった。10日は裾野市立鈴木図書館にて関連する文献資料を調査し、その教育内容や卒業生の出身等を明らかにした。『農村青年共働学校(葛山)資料』によれば、吉田三郎は第1回の卒業生として同郷の大倉部落の者と共に名簿に名を連ねており、同郷の者同士誘い合って入学し学んだ様子が伺えた。11日は裾野市葛山地区で現地調査をおこなった。地域住民に聞き込みをした結果、農村青年共働学校に関する当時の印象や学校の場所が明らかになった。農村青年共働学校は戦前の時点で既に廃校になっており、今は石垣が残るのみであった。同校の教育は青年期の吉田三郎の思想形成に少なからぬ影響を与えた可能性がある。今後は学校の教育内容と吉田三郎の著作を比較し分析するとともに、大正末期から昭和初期という時代における農民教育の実態について明らかにしてゆく。

(文責:加藤幸治)

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徳島県鳴門市における調査概報

日程: 2015年7月1日(水)~7月2日(木) 
調査先:徳島県徳島市(徳島県立博物館)、鳴門市
参加者:加藤幸治、磯本宏紀

山口和雄『日本漁業史』
(昭和22年刊 生活社)

 共同研究「戦前の渋沢水産史研究室の活動に関する調査研究」では、平成27年7月1日~2日、徳島県徳島市および鳴門市において打合せと調査を実施した。
 7月1日は、研究代表者の加藤幸治と共同研究メンバーの磯本宏紀が、アチック・ミューゼアム同人の山口和雄の調査研究の内容と成果について情報共有を行った。山口は、アチックにおいては漁業史にかんする多くの彙報を執筆し、戦後は北海道大学、東京大学などで教鞭をとるかたわら『日本漁業史』などの著作を残した。この日は、4時間あまりにわたって山口のアチックでの仕事の意義について議論を行った。例えば、山口は土屋喬雄の薫陶を受けつつ、当時の土屋と服部之総による日本資本主義論争について、もっと網元の経営史料などに丹念にあたって実態に即した議論が必要と感じており、山口のアチック時代の仕事は、敬三の意図に加えそうした彼自身の問題意識に支えられながら展開されたのではないか、アチックの研究における経済史の水脈をもう一度洗い直す必要があるのではないか、などこれまでの民具中心のアチック観の再考についても議論を行った。

妙見神社の奉納玉垣

重要文化財「福永家住宅」

 翌7月2日は、鳴門市において調査を行った。この地のアチック・ミューゼアムのかかわりは、渋沢敬三が、この地域の有力な藍染料問屋の経営者三木與吉郎に鳴門市撫養の別荘で歓待を受けていること(敬三による三木産業社史の跋文より)、祭魚洞文庫旧蔵水産史料(国文学研究資料館所蔵)に「阿波国板野郡斎田村山西家文書」が所収されていることなどを指摘できる。当日は、眉山麓にあり日本最大級の高さの石灯籠で知られる金刀比羅神社(徳島市勢見町)や、鳴門市内を見下ろす高台にある妙見神社(鳴門市撫養町林崎)など、地域各所に残る山西庄五郎寄進の玉垣や奉納物、および当時の商人と信仰の関係について調査し、あわせて撫養塩田の跡地利用についても巡検した。また、鳴門塩田の往時を偲ばせる国の重要文化財「福永家住宅」と鳴門塩田公園において、塩田関連遺構等の現状について磯本氏より解説を受けた。

 徳島県はアチック・ミューゼアムの水産史研究においては、彙報の刊行など際立った成果のある地域ではないが、鳴門市の山西庄五郎をはじめ、有力な廻船商人や塩田経営家が活躍したことを示す史料や石造物等が豊富に残されており、重要な関心を向けられていたことをうかがい知ることができた。

(文責:加藤幸治)

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キックオフミーティングと研究会の開催

日程:2015年6月6日(土)~7日(日)
場所:神奈川大学 日本常民文化研究所
参加者:加藤幸治、安室知、日高真吾、宮瀧交二、増﨑勝敏、佐藤智敬、葉山茂、揖善継、星洋和、今井雅之

キックオフミーティング

 共同研究「戦前の渋沢水産史研究室の活動に関する調査研究」では、平成27年6月6日~7日、神奈川大学において本共同研究の初年度第1回のキックオフミーティングおよび研究会を開催した。
 6月6日、最初に研究代表者の加藤幸治がこのプロジェクトの目的について、事務局より諸手続きについてそれぞれ説明をした。次に自己紹介と研究紹介をし、各メンバーのアチック・ミューゼアムの研究との接点について共有した。後半は、加藤幸治が「アチック・ミューゼアムにおける水産史研究室の位置づけとその研究課題」と題して研究報告を行った。とくに、アチック・ミューゼアムにおける水産史研究の全貌が未だ詳らかでない点、皇紀二千六百年記念事業の一環で進められた『日本科学史』編纂事業のひとつとして渋沢敬三が「漁業」を担当したことが重要なターニングポイントとなった点、それが頓挫したものの戦後当初の目標を縮小する形で一応の成果は出ている点などを説明した。今年度の活動としては、12月に国立民族学博物館にて、アチック・ミューゼアム収集の筌の熟覧調査と研究会を開催することを合意した。そして研究代表者から各メンバーに対し、担当となったアチック同人の昭和10年代を中心とした調査研究活動や出版物などについて把握するため、当時の調査記録の調査、調査地の踏査による研究内容の理解、回顧録や追悼文集等の読み込みによる人間関係や活動実態の把握等の作業を進めることをお願いした。

 翌6月7日は、共同研究メンバーの宮瀧交二氏に仲介していただき、東京都台東区にある一般財団法人宮本記念財団を訪問した。財団では、宮本瑞夫氏より宮本勢助と宮本馨太郎のアチック・ミューゼアムへのかかわり、とりわけ保谷に建設された民族学協会附属博物館の関係資料について説明を受けた。そして書庫や収蔵室、また現在開館準備中の博物館を見学し、研究のための利用方法等について説明を受けた。宮本瑞夫氏との座談においては、アチック・ミューゼアムが“阿吽の呼吸”で役割分担が決まっていたこと、世代や学歴差が同人同士の関係に大きな影響があること、国立博物館建設のための一連の動きや文化財保護制度確立における渋沢敬三やアチック同人の深い関与、宮本馨太郎の研究態度や教育方針にみられる渋沢敬三の影響など、文字資料からは知りえない部分について語っていただいた。

写真2点/宮本記念財団にて
(文責:加藤幸治)

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