共同研究

戦前の渋沢水産史研究室の活動に関する調査研究

桜田勝徳の志賀島での足跡を辿って

日程:2016年8月6日(土)~8月8日(月)
調査先:福岡県福岡市東区志賀島
調査者:増﨑勝敏

ヤソウカズキン(ドウモコウモ)を着用して漁を行う漁業者(1986年8月4日)

ヤソウカズキン(ドウモコウモ)を着用して漁を行う漁業者(1986年8月4日)

 志賀島は行政的には福岡県福岡市東区に属する。博多湾入口に立地し、面積約5.8平方キロメートル、博多ふ頭からは渡船を使えば約30分で赴くことができる。島といっても陸繋島で、海の中道と呼ばれる砂州で九州本土と繋がっている。島内には志賀島・勝馬・弘の3集落が存在している。第1次生業的に見ると、志賀島は漁業、勝馬は農業、弘は半農半漁が中心となっている。今回取り上げるのは志賀島集落であるが、居住する人々のなかでは、志賀(シカ)と呼称されるのが一般的である。
 桜田勝徳は、父親の福岡在任に伴い、柳田國男の口添えで、九州帝国大学の補助研究員として勤務した。そしてこの時期、何度か志賀島に足を運んでいる。『桜田勝徳著作集』第7巻(1982年)の年譜によれば、1933(昭和8)年秋に早川孝太郎とともに志賀島に赴いたとされる。そして翌34(昭和9)年1月にも志賀島を訪れているとある。「桜田勝徳民俗学年譜」(「『日本観光文化研究所研究紀要』5 1985年)では、早川が桜田を訪ねて以降、「土曜日曜などという時にはいつも御一緒して福岡近くの農村や志賀島、残島などを訪ねるし、」とある。桜田は1933年の「筑紫五ヶ山、日向峠(再び志賀島)」(『桜田勝徳著作集』第7巻)において、「志賀島では顔馴染のものに一人も会わなかった。前泊った宿へ行ってみたが、明け放しで家には誰もいぬ。」と述べているから、桜田は年譜に記載されている以上に志賀島へ足を運んでいたことが推測できる。
 さて、桜田の志賀における業績として、魚の行商人の問題がある。桜田は志賀の魚行商人について、博多志賀島間の渡船が就航してからだと述べている(『筑紫五ヶ山、日向峠、(再び志賀島)』)。筆者の調査によれば、1914(大正3)年の志賀島大火を契機として、経済的に困窮した漁家の女性たちが魚の行商に乗り出したという。当初は、道切れと呼ばれる志賀島と海の中道の間の砂州を渡って、奈多方面に行商に赴いていたが、のちに博多への渡船を利用して、この方面への行商が盛んになったとされる。
 この女性行商人について、桜田は前著ではシガという呼称で呼んでいる。しかし、筆者が調査したところではシガとは呼ばれず、いずれの話者もアキナイシと呼んでいた。この呼称については検討の余地がある。
 つぎに『海の宗教』(1970年)では、志賀海神社の鹿角倉(堂)について、各地の漁業者が祈願の意味で鹿の角を板につけて海に流し、それを拾った者が志賀海神社に奉納するとあるが、この点については、具体的な伝承を得ることができなかった。
 そして、『筑紫五ヶ山、日向峠、(再び志賀島)』では、漁業者が漁の際に首巻きを使用していることが述べられているが、その名称は明らかにされていなかった。今回の筆者の調査では、この首巻きを現在も年老いた漁業者たちが使用していることが明らかになった。1938(昭和13)年生まれの漁業者によると、もともとヤソウカズキンと呼び、のちにドウモコウモと呼ぶようになったということが明らかとなった。ドウモコウモは現在のスヌードのようなもので、夏場は日除けとして晒、冬場は防寒としてネルのものを使用している(写真)。
 桜田の志賀島来訪は、彼がアチックミューゼアム入所以前のことである。しかし、1933年は、桜田が早川の紹介で渋沢敬三と会う、彼にとってのメルクマールとなる時期である。そうした点から、この時期の桜田の動向を探ってみることは、意義のないことではなかろう。今後の問題として、慶應義塾大学に所蔵してある桜田の「志賀島記」などを検討して、九州時代の桜田の足跡を辿ってゆきたい。

(文責:増﨑勝敏)

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平成28年度第1回研究会の開催

日程:2016年7月17日(日)
場所:神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科演習室
参加者:加藤幸治、磯本宏紀、今井雅之、揖善継、佐藤智敬、葉山茂、日高真吾、星洋和、増﨑勝敏、安室知

 平成28年7月17日、共同研究「戦前の渋沢水産史研究室の活動に関する調査研究」(加藤班)では、平成28年度第1回研究会を神奈川大学(9号館2階歴史民俗資料学研究科演習室)にて開催した。
 午前の部は、加藤幸治と今井雅之氏が調査の中間報告等を行った。まず加藤から、国立民族学博物館のフォーラム型情報ミュージアム・プロジェクトのひとつとして今年度から始まった「日本民族学会附属民族学博物館(保谷民博)資料の履歴に関する研究と成果公開」との協力関係のあり方などについて提案を行った。次に、今井氏が、「吉田三郎と戸谷敏之 —思想と学問—」と題して中間報告を行った。この報告では、吉田三郎の思想形成の過程、影響を受けた人物や活動、そしてアチック・ミューゼアムでの活動の意図等について話題提供がなされた。とりわけ生活記録という手法については、吉田が薫陶を受けた人物が持っていた方法や、同時代の農村更生運動や郷土食に関する調査方法との親和性について議論が及び、新たな課題を共有できた。また、将来を嘱望されながら若くして戦死した戸谷敏之の研究については、これまでほとんど研究がなく、今井報告ではその存在の重要性を再確認することができた。
 午後の部は、磯本宏紀氏と安室知氏が調査の中間報告を行った。磯本氏は、「山口和雄の水産史研究とアチック・ミューゼアム時代の活動」と題して、山口和雄の研究の来歴を整理した。そのなかでは、彼が東京帝国大学の学生時代に日本資本主義論争に対して持った、実証的な事例に基づいた議論をもとにすべきでないかという素朴な疑問を終生大切にしてきたことが、アチックでの研究を考える上で重要であることを再確認した。猛烈な仕事量と、まとめあげる力は、アチック同人のなかでも群を抜いている。次に、安室氏は「渋沢敬三の魚名研究 —その目的と学史的意義—」と題して報告した。魚名研究は、渋沢がもっとも文化研究に労力をかけることができた時期に取り組まれた主要な課題である。それが、柳田國男の語彙主義への暗黙の批判や、のちに柳田民俗学の理論的柱に位置付けられていく周圏論への懐疑に下支えされているという安室氏の指摘は、非常に納得のいくものであった。原資料の調査からその研究の基本的な姿勢を把握した安室氏の発表は、基礎資料から研究のアプローチや思想を再考しようとする本共同研究の方向性を、再認識させるものであった。
 すべての報告の後、今年度の各メンバーの調査計画、および合同調査についての打合せを行い、研究会を終了した。

(文責:加藤幸治)

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吉田三郎関係資料の調査概報

日程:2016年6月28日(火)~6月29日(水)
調査先:秋田県秋田市新屋割山町、秋田県潟上市追分西
参加者:今井雅之

戦前の新聞投稿記事

戦前の新聞投稿記事/クリックにて拡大

 共同研究「戦前の渋沢水産史研究室の活動に関する調査研究」に関して、共同研究メンバーの今井雅之は吉田三郎に関する現地調査をおこなった。
 吉田三郎は自身に関する記録を数多く残しており、それらは現在、彼の親族がそれぞれ保管している。本調査では、それらの資料を熟覧させていただくとともに、親族の目から見た吉田三郎について明らかにすることを目的とした。
 28日は三郎の娘にあたる人物に聞き書き調査をおこなった。調査の際には吉田三郎のアチック写真(日本常民文化研究所所蔵)をご覧戴きながら、当時の様子について伺った。聞き書きにより、三郎が戦前に大倉集落において山居生活をおこなった具体的な場所やその意味が明らかになった。
 29日は三郎の婿にあたる人物のお宅を訪ね、三郎の残した資料について熟覧した。三郎は昭和3年以降、自身の主張を地方新聞や雑誌に数多く投稿しており、それによって村を越えた人脈が生まれていったことが明らかになった。投稿記事からは、当時の農村に対する三郎の問題意識を窺い知ることができ、彼の行動の背景を考えるうえで参考になるものである。その後、三郎の甥にあたる人物のお宅を訪ね、過去の調査で入手した資料をもとに補足調査をおこなった。これにより、保谷の博物館建設に伴い三郎とその弟、四郎が上京する経緯が整理された。
 本プロジェクトで親族の方々にお話しを伺い、新たな資料を熟覧させていただくなかで、吉田三郎の一見特異に見える行動の意味が明らかになってきた。今後は当時の時代状況との関連のもとに資料を読み込みつつ、引き続き調査を継続してゆきたい。

(文責:今井雅之)

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