共同研究

戦前の渋沢水産史研究室の活動に関する調査研究

羽原文庫に関する調査

日程:2017年3月13日(月)
調査先:東京海洋大学附属図書館
調査者:磯本宏紀

羽原文庫所蔵資料の一部

羽原文庫所蔵資料の一部

 羽原又吉は、戦前の渋沢水産史研究室やその同人とも近しい関係にあり、昭和戦前期には水産講習所教授や農商務省嘱託を務めるなど、すでに水産史研究の第一人者となっていた人物である。当時、漁業経済史の研究を行っていたのはアチック・ミューゼアムを除くと羽原又吉が唯一の存在であった。当時の若手研究者を中心としたアチック・ミューゼアムに対し、羽原又吉は、漁業経済史研究においてはいわば先達的存在であり、アチック・ミューゼアムの研究や調査地選択にも多大な影響を与えていると考えられる。
 その羽原又吉が収集した史料や文献を集めた羽原文庫が、現在東京海洋大学附属図書館に収蔵されている。3200点を超えるコレクションで、図書、雑誌のほかに筆者資料、原文書、絵図等が含まれる。今回の調査では、『羽原文庫資料目録』を参考にしながら一部の資料について閲覧、撮影した。その際、アチック・ミューゼアムによる調査研究と関わりの深い九十九里関係資料、富山湾関係資料、香西漁業史等、瀬戸内関係資料等について重点的に閲覧した。

(文責:磯本宏紀)

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吉田三郎関係資料の調査概報

日程:2017年3月16日(木)~3月17日(金)
調査先:秋田県男鹿市、秋田市
調査者:今井雅之

廃校になった小学校を利用した収蔵庫

廃校になった小学校を利用した収蔵庫

収蔵庫の内部の様子

収蔵庫の内部の様子

 共同研究「戦前の渋沢水産史研究室の活動に関する調査研究」に関して、共同研究メンバーの今井雅之は吉田三郎関係資料に関する追跡調査をおこなった。
 吉田三郎は戦前、自身の農村生活について詳細に綴り、『男鹿寒風山麓農民手記』や『男鹿寒風山麓農民日録』という形で発表したが、その中には農作業に用いた民具についても詳しい記録がある。また、吉田三郎は晩年に男鹿市の文化財保護審議委員になっているため、男鹿市の民俗資料収集への関与が想定された。
 そこで本調査では、①吉田三郎が記録した民具と収蔵された民具を比較すること。②収蔵された民具に対する吉田三郎の関与の有無を明らかにすること。以上2点を目的として調査をおこなった。
 3月16日は男鹿市教育委員会の伊藤直子氏に同行いただき、男鹿市の文化財収蔵庫を調査した。収蔵庫には2005年に合併した旧若美町の資料も移管されており、半島部の生活用具のみならず、八郎潟沿岸部の生活用具も収蔵されていた。資料の収集年は最も古いもので1970年で、その後も現在に至るまで断続的に寄贈を受け入れている状況であった。吉田三郎が男鹿市の文化財保護審議委員に就任した年が1972年であることを考えると、なんらかの関与があっても不思議ではないが、資料台帳からは直接的な証拠となる情報は得られなかった。しかしながら、吉田三郎が戦前に記録した民具と同じ特徴を持つ民具は散見され(一例として、八角形かつ七寸四方の田植枠)、これらは戦前の記録を理解する上で重要な資料となった。
 また、収蔵庫の一室には地元の郷土史家が収集したコレクションがあり、その人物が男鹿市の民具収集に深く関与していたことが明らかになった。戦前に民具を記録し、戦中は宮本馨太郎のもとで民具整理をしていた吉田三郎であるが、戦後における民具との距離感は未だ不明瞭である。この問題を考える上で、地元の郷土史家の存在は重要な要素になってくる可能性がある。今後の課題としたい。
 3月17日は、秋田県立図書館で吉田三郎に関連する文献資料について調査した。三郎自身の手による新たな資料は発見できなかったが、戦後間もない時期にアチック同人の一人である小川徹が吉田三郎の記録した同族組織についてのデータを用いて論文を執筆していたことが明らかになった。吉田三郎は多くの著作を残したが、一度も論文という形では発表しなかったことを考え合わせると、この論文はアチック同人内での役割の違いを示すものとして興味深い。
 本調査で明らかになった情報をもとに今後も調査を継続し、吉田三郎の立ち位置について明らかにしてゆく。

(文責:今井雅之)

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筑波大学および旧行徳塩田地域での調査

日程:2017年3月11日(土)~3月12日(日)
調査先:筑波大学中央図書館、市立市川歴史博物館、旧行徳塩田近辺(市川市・船橋市)
調査者:星洋和

写真1 塩枡桶(ムサバン) 写真2 市川市塩浜

■ 写真1 塩枡桶(ムサバン)  写真2 市川市塩浜

写真3 江戸川沿いに建つ常夜灯

写真3 江戸川沿いに建つ常夜灯

 星洋和は3月11日から12日にかけて関東方面での調査を行った。
 3月11日の午前には筑波大学中央図書館で、東京教育大学在任時代の楫西について資料調査を行った。今回、同図書館が所蔵する『東京教育大学新聞』から楫西に関する記事を探してみたところ、東京教育大学で経済学の教授であった大島清によって書かれた楫西への追悼記事を発見することができた。記事には、「大阪商人らしく膝を折って挨拶する腰のひくい、いんぎんな人」、「楫西さんはことにひとの言動を皮肉るのが旨く、(中略)そばにいるものは「いじわる爺さんがはじまったぞ」とからかったものである」など、楫西の人柄や交流関係を知る上で貴重な情報が記されていた。なお、今回は調査できなかったが、同図書館には楫西が編集に携わった歴史や地理の教科書も収蔵されている。こちらの文献については次の機会に調査を行いたいと思う。
 3月11日の午後と12日には旧行徳塩田地帯での調査を行った。1941年にアチックミューゼアム彙報として刊行された『下総行徳塩業史』は、楫西の代表的な研究の一つである。今回筆者は楫西の著作に対する理解を深めるため、3月11日には市立市川歴史博物館で、三村宜敬学芸員と菅野洋介学芸員に面会し、行徳塩田研究における『下総行徳塩業史』の位置づけ、行徳塩田の歴史についてご教示いただいた。また、三村学芸員には同博物館で展示されている製塩用具や海苔作りの道具の解説などもしていただいたが、その中には『下総行徳塩業史』にも紹介されている塩枡桶(通称:ムサバン。写真1)なども展示されていた。
 12日には、市川市および船橋市での旧塩田地帯での巡見調査を行った。現在、行徳およびその周辺にあった塩田地帯は全て埋め立てられ、その跡は住宅街や工業地帯となっている(写真2)。しかし、行徳塩の運搬に用いられた江戸川の沿岸や行徳街道には、日本橋の成田講中の人々が建てた常夜灯(写真3)や、塩問屋であった加藤家の住宅など、かつての行徳の賑わいを示す遺構がいくつか残っている。楫西は『下総行徳塩業史』を執筆するにあたって、何度か行徳に足を運んでいるようだが、こうした遺構の存在は、かつての行徳塩田の隆盛をイメージさせるのに十分だったのではないだろうか。
 楫西の来歴については、民俗学とは異なる道を進んだこと、また他のアチックメンバーよりも早く亡くなったことなどから、不明な点が多い。そうした点においても、今回の調査は、楫西の研究人生の起点、そして楫西の人となりを知る上で貴重な調査となった。

(文責:星洋和)

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