戦前の渋沢水産史研究室の活動に関する調査研究
瀬戸内沿岸部における製塩業に関する調査
日程:2017年7月13日(木)~16日(日)
調査先:三田尻塩田記念産業公園、赤穂市立歴史博物館、赤穂市立海洋科学館、鳴門市立図書館
調査者:星洋和
写真1 塩づくり体験(三田尻塩田記念産業公園職員撮影)
写真2 入浜式製塩用具一式(赤穂市立歴史博物館所蔵)
写真3 改修している流下式塩田の枝条架
写真4 福永家住宅脇を流れる水尾(水路)
共同研究「戦前の渋沢水産史研究室の活動に関する調査研究」に関して、星洋和は瀬戸内沿岸部の諸地域で行われていた製塩業についての調査を行った。
昭和13(1938)年4月にアチックに入所した楫西光速は「アチックマンスリー」第39号(同年9月発行)において、「結局近世塩業史は(中略)瀬戸内十州地方にその中心を置かねばならず、他の地方に於いても亦それとの関連に於て探求していかなければならないであらう」と述べ、行徳塩田の調査に取り掛かる前に、赤穂や三田尻(防府市)などの諸地域の製塩業の歴史的展開や技術を概観している。また、楫西は『下総行徳塩業史』執筆後の昭和16(1941)年に瀬戸内沿岸部の視察も行っている。楫西の製塩業研究の基礎に瀬戸内沿岸部の製塩業があると考えた調査者は、7月13日から15日にかけて山口県防府市、兵庫県赤穂市、徳島県鳴門市で調査を行った。
7月13日は山口県防府市にある三田尻塩田記念産業公園での塩づくり体験と、地域巡見を行った。三田尻塩田は、萩藩が17世紀前半に始めた干拓事業(開作と呼ばれた)において、水田に適さない地を塩田としたことを起源とする。三田尻塩は、近世中期には北前船によって日本海沿岸部を中心に全国各地へと流通したが、近代に入ってからも日本海沿岸部を中心に広く流通していたことが渋沢敬三の「塩俗問答集」から窺い知れる。今回調査者は三田尻塩田記念産業公園を訪問し、三田尻の製塩業に関して映像による説明を受けたのち、塩づくりの作業体験をした。調査者が行ったのは採鹹作業の内、鹹砂の採り入れとあと浜という作業である(写真1)。使用した製塩用具は体験用に作成されたものだが、入れ鍬による鹹砂のすくい方や桶の担ぎ方など、いずれもコツを要する大変な作業であることを体験できた。
7月14日は兵庫県赤穂市にある赤穂市立歴史博物館と赤穂市立海洋科学館を訪問し、現地で行われていた製塩業について調査を行った。赤穂市立歴史博物館では、同館に展示されている国指定重要有形民俗文化財である赤穂の製塩用具や、塩や燃料の輸送に重用された上荷船(ウワニブネ)について、学芸員の木曽こころ氏の解説を受けた(写真2)。また、同日に訪問した赤穂市立海洋科学館ではボランティアの方の案内の下、化学的な観点からの塩の重要性や、同館の敷地内に再現された入浜式塩田や流下式塩田の枝条架、煎熬施設(釜屋)などの諸設備について解説を受けた(写真3)。
7月15日には徳島県鳴門市で鳴門市立図書館での文献調査及び地域巡見を行った。塩田があった場所は現在、住宅街や企業の敷地となっているが、塩田に関する記念碑や遺構も多く残っている。例えば、文献調査を行った鳴門市立図書館に隣接する公園には、鳴門塩田発祥の記念碑が建立されている。また、鳴門市街地の東に浮かぶ高島には、塩田の浜主であった福永家の住宅(国指定重要文化財)と塩田の遺構が保存されている。
今回の調査では、瀬戸内沿岸部で行われていた製塩業について知見を得ることが出来た。特に今回調査した地域においては、水運の存在が塩田の発展に大きく関わっていたことが分かった。楫西も瀬戸内を視察した際に塩田と海の間を行き交う船の姿を目撃しているはずだが、楫西の製塩業に関する著作では(文献史料からの引用が中心とはいえ)水路や船に関する記述は少ない。瀬戸内沿岸部視察の成果が楫西の著作にどれほど反映されているかは、検討していく必要があるだろう。
(文責:星洋和)