戦前の渋沢水産史研究室の活動に関する調査研究
国立民族学博物館蔵 ハコフグの剥製に関する再調査
日程:2017年8月6日~8月7日
調査地:福岡県福岡市東区志賀島
調査者:増﨑勝敏
筆者は先稿において、国立民族学博物館に所蔵された、桜田勝徳採集のハコフグ(Ostracion immaculatum)の剥製について、その使途に関する報告を行った。そこでは、桜田が志賀島におけるハコフグの地方名をコウコフクと呼ぶ点と、これがいわゆる熨斗と同じように用いられたという点について述べた。本稿はこの桜田の報告に対し、筆者の調査に基づいた見解を指摘するものである。
志賀島には、志賀島、弘、勝馬の3集落が存在する。今回聞き取り調査を行ったのは、志賀島と弘である。志賀島については、島名との混同を避けるため、この集落の人々が用いる志賀という呼称を使用することにする。
桜田は、『志賀島記』に収載された、「香物河豚とアゴの鰭」のなかで、次のように述べている。いささか長くなるが引用してみよう。
此尾鰭はかくの如く用ゐられるばかりでなく、又熨斗代りに贈答物の上にそへられるといふ。
ここで桜田はトビウオの鰭とハコフグが贈答用の熨斗同様に用いられている点を報告している。いっぽう、筆者は先稿でこのハコフグの剥製について、志賀ではコーボーブクと呼ばれ、婚礼の挨拶回りの際に用いられた点を指摘した。つまり、桜田は贈答一般の熨斗としてハコフグが用いられていると述べている一方、筆者は婚礼に関わる場面に限定して、ハコフグが用いられている点を報告したのである。
そこで筆者は志賀島におけるハコフグの使途について再度調査を行い、その伝承を明らかにしようと試みた。今回の調査では前回の調査で話を伺った、志賀に在住する1938年生まれの男性漁業者に聞き取りを行うとともに、志賀の隣の弘に在住する1950年、51年生まれの2人の男性から、話を伺った。
志賀ではハコフグのことをコーボーブクと呼ぶ。それをわざわざ漁の対象にすることはなかったが、タテアミでたまたま1日に1匹とれるぐらいのものであったという。わざわざ市場には出さなかった。ハコフグの腹部を切って、肝だけを採ってそれを煎じると、油状になって何の傷にもよく効いたという。身は捨てた。干すのは自分で行った。自家用のほか、オヤ、キョウダイにあげたりもしたという。
シュウギ(婚礼)前後、カオミセと称して、ナカダチ(仲人)の妻とヨメが近所両隣や志賀内のシンセキに挨拶回りをした、シンセキはイトコハン(イトコの子)までの範囲で回った。志賀は村内婚が多かったが、相手を漁家同士、農家同士などとこだわることはなかったという。
カオミセの際、訪れる側は熨斗がついた袋入りの茶葉を相手に渡した。迎える側の各家では、コーボーブクを三宝に載せて玄関に置いた。三宝には鯛の尾鰭やアゴの胸鰭を載せることもあった。カオミセでは玄関先で挨拶するだけで、家に上がってもらったり、お返しの品を渡すことはなかった。
出産祝いや入学祝いなど、婚礼以外の祝儀では、鯛の鰭やアゴの鰭を添えたが、コーボーブクを添えることはなかった。
この聞き取りでは、婚姻に関わる儀礼では特にハコフグを用いた点を窺い知ることができたが、弘の場合はどうであろうか。
弘は第一次産業のうえからみると、半農半漁の集落である。ただし、家ごとに見ると、漁業専業、農業専業、両者の兼業といった就業形態に分かれる。志賀の集落が、漁業専業、農業専業の各家から構成されているのとは、この点で異なる。
先に述べた話者の話では、ハコフグをゴーボーブクと呼び、タテアミやソコビキでたまたま獲れるものだという。多く漁獲した場合はザッコ(雑魚)として福岡の市場に出すという。
漁獲したハコフグは、腹部を包丁やハサミで切って、肝以外の内蔵を取り出し、味噌や砂糖を入れて焼くと、美味であるという。
ゴーボーブクの乾かしたものは、結婚の結納の時に用いたという。夫方から妻方に結納金を渡す時、風呂敷に包んだ結納金を盆に置き、それにゴーボーブクを添えて、それをさらに布でくるんで持参した。
他の祝い事、たとえば出産祝いや入学祝いの時は、祝儀袋に熨斗代わりのイリコを添えた。ただし、魚のシリビレ(尾鰭)を添えるのが最もよいといい、トビウオの胸鰭の干したものをそえることもあった。祝儀をもらった者は、返礼としてマッチを2、3本渡したという。
ここでも、ハコフグの使途は結納金に添えるという、婚姻儀礼との関係性が見いだされた。桜田との相違を指摘することができる。
ハコフグを婚姻に関わる儀礼に限り使用するという筆者の調査と、桜田の報告との間には、かくのごとき相違がある。この原因はどこにあるのであろうか。これを桜田が調査当時婚姻とハコフグとの関連性に関心を抱いていなかったからだとする解釈も可能である。また筆者と桜田の調査には時間差があり、習俗が変化したのであると考えることも可能であろう。今後はこうした疑問を明らかにするため、今回訪れることのできなかった勝馬や、博多湾岸の他地域での調査が必要である。
末筆ながら、今回の調査にご協力を賜った、志賀、弘の話者の皆さまと、『志賀島記』の引用をご許可いただいた慶應義塾大学文学部古文書室に心から御礼申しあげたい。
(文責:増﨑勝敏)
志賀島の七夕祭について
日程:2017年8月6日~8月7日
調査地:福岡県福岡市東区志賀島
調査者:増﨑勝敏
七夕祭の志賀島漁港(1986年8月6日)
本稿では桜田勝徳の『志賀島記』に記された志賀海神社の七夕祭について、現況を聞き取りならびに直接観察に基づいて述べてゆきたい。
8月6、7日は志賀海神社で七夕祭が執り行われる。先稿にも述べた通り、桜田勝徳は志賀島をしばしば訪れ、調査を行っている。その調査の一端は、『志賀島記』によって伺うことができるが、その『志賀島記』の冒頭において、彼は七夕祭の様子を述べている。少し長くなるが、引用してみよう。
七夕祭に出かけやうとしたが、しけ後の雨續きで渡島したのは七月八日の朝であつた。船上から眺めると志賀の本村には赤い幟らしいものが軒毎にひらひらと棚引いてゐるのが見える。七夕の笹かと思つてゐると、さうではなかつた。近づいて見れば之は磯に並ぶもろもろの船の艫に立てられた船名入りの赤い旗であった。この船は皆他處の船で、志賀明神の七夕祭に参宮したものであるといふ。殊に近隣諸浦の新造船は是體此時やつてくるらしい。
(注:太字部分傍点あり)
コトナキシバとシカ茶(2017年8月6日)
1938年に生まれ、志賀島で専ら漁業をなりわいとしてきた男性によると、七夕祭では、博多湾岸の玄界島、西浦、相島といった漁業地区の漁業者が、自船や他船に大漁旗を立て、同業者や、家族などと乗り合わせて来島し、志賀海神社に参詣し、コトナキシバと呼ばれる椎の枝を束ねたものを授かり、その後、漁船上で会食するという。8月6日は他漁業地区の漁業者、7日は志賀島の者が参詣するという。
このコトナキシバについても、桜田勝徳は『志賀島記』で言及している。その部分を引用してみよう。
先ほどの話者の語りと、桜田が記した内容には大きな相違はない。志賀島の人々はオコウジンサマの棚、戸口などにコトナキシバを祀り、そのはを財布に入れて御守りににするという。また、旅行に行くときも財布にいれる。特にアキナイシと呼ばれる女性水産物行人のなかでは、アキナイに行くとき、これが顕著であるという。コトナキシバは漁船のブリッジにも祀られる。
コトナキシバの由緒について、桜田は神功皇后が三韓出兵の折、無事帰国を果たし、船の舵の柄に使用した椎の木を地面に立てられたものが芽をふいたものであると述べている。現在の志賀海神社の社伝にも、ほぼ同様の内容が記してある。
以上のように、桜田が『志賀島記』で述べた七夕祭の習俗は、現在の志賀島でも目にすることができる。ただ、漁業者の減少などで、往時の賑わいはないが、島おこしの一環として、現在、志賀海神社下の駐車場で、地元の人々が飲食を供する露店を開いたり、志賀海神社へ向かう本通りに、志賀島の古写真を展示するなどの試みがなされている。
今後の筆写の意向としては、『志賀島記』の内容を精査し、桜田が記した内容を精査し、跡づけてゆきたい。
末筆ながら、聞き取りに快く協力して下さった。志賀島の皆さんと、『志賀島記』の複写・引用をご承諾いただいた。慶應義塾大学文学部古文書室に御礼申しあげたい。
(文責:増﨑勝敏)
慶應義塾大学文学部古文書室蔵『志賀島記』について
日程:2017年8月1日~8月3日
調査先:慶應義塾大学文学部古文書室
調査者:増﨑勝敏
■ 桜田勝徳『志賀島記』表紙(慶應義塾大学文学部古文書室蔵 2017年8月2日)
■ 『志賀島記』冒頭頁(慶應義塾大学文学部古文書室蔵 2017年8月2日/クリックにて拡大)
桜田勝徳の母校である慶應義塾大学には、桜田の遺族の意向により、彼の資料が多数所蔵されている。これらの分類については、中野泰らによってアーカイブ化が試みられているが(『フィールドノート・アーカイブズの基礎的研究』2016年)、個々の資料の内容の精査までには至っていない。
筆者はこれまで福岡市東区志賀島における桜田の足跡を辿ってきた。そうしたなかで、いわゆる「大福帳」と呼ばれる資料に着目した。この調査記のなかには、『志賀島記』と呼ばれる一冊がある。『志賀島記』については、小川博が『桜田勝徳著作集第6巻』「解説」(名著出版、1981、p.545)のなかで、その大部分が現地の小学校にあった郷土誌を桜田が筆写したものなので、著作集への収載を見送った旨記している。しかし、実際にその内容を検討すると、桜田は筆写した資料について、「△以下社会と記するは此書類の寫である。」(注:太字部分上部に〇印あり)として、筆写した各項目のあとには(社会)との記載がなされている。そして、その筆写された資料は、桜田の調査と峻別されるとともに、多くの箇所で桜田自身が聞き取りした内容が収められている。筆者の見る限りでは、『志賀島記』の資料的価値は決して低くはない。
『志賀島記』には筆記された年月日の記載がない。中野はこれを1932年(前掲書 p.7)としている。『志賀島記』の体裁を見ると、長辺19.8cm、短辺13.3cmで、短辺の側で和綴じしてある。表題には『志賀島記』とあるが、志賀島に関する報告のあとに、他の地域についての記述がなされている。
筆者の今後の方針としては、『志賀島記』の内容を精査し、現地での聞き書き調査や直接観察調査で、志賀島における桜田の業績を跡づけてゆきたい。
なお、今回の調査では慶應義塾大学文学部古文書室に多大なるご協力を賜った。この場を借りて御礼申し上げたい。
(文責:増﨑勝敏)