共同研究

戦前の渋沢水産史研究室の活動に関する調査研究

宮本常一に関する資料調査(五島列島)

日程:2018年3月18日(日)~3月22日(木)
調査先:五島観光歴史資料館(長崎県五島市)、椛島神社(同本窯町)、五島市岐宿町、同玉之浦町 
 ※小値賀町歴史民俗資料館(北松浦郡小値賀町/欠航のため未訪問)
調査者:佐藤智敬

五島観光歴史資料館

西村家跡地(福江島岐宿町)

宮本、山階が長崎西彼杵の移民集落があると紹介した、椛島内点在集落のひとつ 芦ノ浦

 宮本常一がアチック・ミューゼアムにおいて水産史研究を行った成果の一部は、戦後に漁業制度資料調査としても援用される。それとともに昭和24、25(1949、50)年、長崎県対馬における九学会連合の調査を熱心に行い、それが宮本の研究関心におけるエポックとなったことはよく知られている。対馬調査の際の古文書の筆写はその点でも知られており、そしてその筆写稿本は日本常民文化研究所の漁業制度資料の一角をなしている。
 その後宮本は、昭和27(1952)年より、山階芳正を中心とした、西海国立公園指定に関する調査の一環として、長崎県五島列島の調査を実施している。このときの調査ノートや旅譜を追跡していくと、民俗調査とともに、対馬同様、五島列島各地の漁業関係を中心とした古文書を借用、筆写し、それが漁業制度資料となっている。こうした調査手法は、宮本が昭和10年代に沼島で実施した方法とも重なるため、当時宮本が筆写、借用したことが判明している文書の追跡を実施した。宮本の五島調査全行程を踏査することは困難であったため、福江島、小値賀島を選び、自らの旅譜と撮影した写真をもとに執筆された、『私の日本地図5 五島列島』(宮本常一、1968、同友館)を典拠とした追跡を実施した。しかしながら1日目以降荒天に伴う波浪状態が続き、航路欠航により島から島への移動ができない日が続いたため、調査予定は変更を余儀なくされ、小値賀島への渡航は断念。主に福江島と、宮本が著書で若干紹介している椛島での調査にとどまった。
 宮本が五島列島で借用した古文書(返却済)のうち、「西村久之家文書」(福江島岐宿)については、五島観光歴史資料館の協力のもと追跡調査を行ったが、借用元の西村家はすでに福江島になく、原本の所在は不明であった。しかし、五島市立図書館における文献調査により五島文化協会『浜木綿』で、地元民俗学者の故郡家真一氏が「入手した」と記され、その内容が詳細に翻刻されている。そしてその内容はそのまま『福江市史』『岐宿町史』にも転用されていることが判明した。
 この調査にあわせて、福江島、椛島における、宮本の調査自体の追跡も、『私の日本地図5 五島列島』掲載の写真および記述事項から試みた。現在でも判明した撮影地点では、当時の面影を残す箇所が多く残っていることが判明した半面、宮本常一という撮影者の名前を知る方は少なかった。むしろ、福江島、椛島においては、西海国立公園調査の代表者であった山階芳正に関する伝承のようなものを聞き取った。皇族の家系である山階の来島は「宮様がいらっしゃった」というインパクトを与えていたと考えられる。椛島へは宮本は上陸していないようであるが、文書資料を使用し、椛島の変遷についての著作もあり、渡海船から撮影した島影とともに著書で紹介している。ちなみに山階は椛島に上陸し、調査報告も存在し、宮本へも情報提供を行っていたことも推測された。
 福江島からは遠く離れた小値賀島の小値賀町歴史民俗資料館には、小値賀島の隣島である宇久島(現佐世保市)の泊本三郎家文書が寄託されている。この文書については、宮本常一も著書で紹介するとともに一部を借用、漁業制度資料として筆写したことも判明している(返却済)。今回この文書と神奈川大学日本常民文化研究所所蔵の筆写稿本との整合性を追跡する予定であったが、悪天候に伴う航路欠航のため叶わなかった。宮本も五島列島をくまなく巡っており、今回は一部の追跡をするにとどまった。そのため、今回行きつくことができなかった小値賀島を含め、今後機会を見つけ再度追跡調査できれば幸いである。

(文責:佐藤智敬)

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宮本常一に関する漁業制度資料調査(周防大島)

日程:2018年3月14日(水)~3月17日(土)
調査先:周防大島文化交流センター、高知県梼原町(竜王橋、梼原町歴史民俗資料館等)、
 高知県四万十町(四万十町郷土資料館等)
調査者:佐藤智敬

宮本常一記念館閲覧スペース

梼原町竜王橋(土佐源氏の舞台)

四万十町郷土資料館漁具展示

 昨年度の調査により、宮本常一の著作、ノート、調査カード、写真類を保管している周防大島文化交流センター(宮本常一記念館)には、昭和10年代に兵庫県沼島で宮本常一が調査した古文書の筆写稿本が保管されていることが確認されていた。それを詳しく調べてみると、その稿本は水産庁の原稿用紙に筆写されていた。沼島の調査自体は、アチック・ミューゼアム(日本常民文化研究所)が漁業制度資料の調査に乗り出す前の調査成果であるにもかかわらず、漁業制度資料調査成果の一端として位置づけられているようである。沼島の古文書については別途宮本による筆写ノートも確認されており、それは昭和10年代の調査当時に記されたものであると考えられる。昭和10年代以降の民俗調査で筆写した、漁業制度関係の古文書を、昭和24年以降、改めて水産庁の原稿用紙に筆写しているものと思われた。こうした過去の調査成果を、宮本が別途漁業制度資料として流用した形跡について今回は追跡調査を実施した。
 具体的には、宮本家に残されていた漁業制度資料筆写稿本に関する資料の確認作業を実施した。漁業制度資料としての古文書は、かつての日本常民文化研究所で借用、カーボンを使用し筆写、さらに2部複製され、所有者、日本常民文化研究所、水産庁でそれぞれ保存という形式であったという。しかしながら、宮本常一の場合、調査先で文書を筆写しその場で戻し、そもそも日本常民文化研究所に送付せぬまま終わったものが多くあるようである。こうした筆写稿本の一部は、神奈川大学日本常民文化研究所には存在し、中央水産研究所には存在しないようである。
 周防大島文化交流センター所蔵で水産庁の原稿用紙を用いた筆写稿本と思われるものは、70点を超えて存在し、沼島のほか、大阪府、兵庫県、大分県、愛媛県、山口県、長崎県(特に対馬)と多岐にわたることが今回判明した。もちろん、その多くは漁業制度資料調査が実施されて以降集められたものであるが、それ以前に収集した、昭和10年代の調査成果についても同様の書式で援用し、その成果を活用していることが改めて確認できた。これは宮本にとって戦前のアチックの調査活動が、戦後の漁業制度資料調査の起点ともなっている証左といえるだろう。
 帰路には、沼島調査直前の昭和16(1941)年2月に宮本が実施した、周防大島から愛媛、高知へと続く調査旅程の一部をトレースした。宮本によるこの調査旅行では、後年「土佐源氏」として発表される翁との出会いがあったことで知られるが、このときの調査ノートは戦災により焼失してしまっている。そのため具体的な記録はほぼ残っていないが、特に現四万十町では鵜飼の調査を行った可能性が高く、宮本の足跡を発見できることを期待したが叶わなかった。しかし、かなりの高低差を含んだルートを踏査することにより昭和10年代の民俗調査の過酷さを一部追体験できた。それとともに、土佐源氏の舞台として知られる竜王橋のほか、梼原町歴史民俗資料館(以上高知県梼原町)、四万十町郷土資料館(高知県四万十町)において生活用具、漁具等の資料を視察し、調査地のくらしの変遷を知ることができた。

(文責:佐藤智敬)

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三面川におけるサケ漁及びサケ養殖に関する調査概報

日程:2018年3月12日(月)、3月24日(土)~3月27日(火)
調査先:神奈川県横浜市(神奈川大学日本常民文化研究所)
 新潟県村上市(村上市郷土資料館、イヨボヤ会館、村上城址、三面川流域など)
調査者:星洋和

岩船郡村上三面川鮭浚之図(村上市郷土資料館所蔵)

サケ漁の漁具(イヨボヤ会館所蔵)

村上城址から見た旧城下町

 共同研究「戦前の渋沢水産史研究室の活動に関する調査研究」に関して、共同研究メンバーの星洋和は、新潟県村上市で戦前のサケ漁及びサケ養殖に関する調査を行った。
 楫西光速がアチックに参加してから半年ほどが経過した1938年の秋、彼は伊豆川浅吉、岩倉市郎とともに、サケ漁の調査のために新潟県の村上町と村上本町(どちらも現村上市)を訪れている。この時の調査成果は後に伊豆川によって「越後三面川鮭漁業の史的考察」(『渋沢漁業史研究室報告』第1輯に所収)としてまとめられているが、その中には現地の古老から聞き書きをしたこと、サケ漁の現場を見学したことなども述べられている。アチックに加入してから古文書の整理が中心であった楫西にとって、この調査は貴重な経験であったと考えられる。今回、調査者は、楫西にとってこの調査がどのような意味を持ったかを考えるため、彼らが調査した当時の三面川におけるサケ漁及びサケ養殖について新潟県村上市で調査を行った。
 3月12日は、予備調査として神奈川大学の日本常民文化研究所でアチック写真の調査を行った。今回は、データベース化されている写真のうち、村上地区で撮影された写真を閲覧した。
 3月24日は宮城県から新潟県村上市へ移動し、25日から26日にかけて調査を行った。26日の午前中は村上市郷土資料館(通称:おしゃぎり会館)で学芸専門員の桑原猛氏に面会し、村上市のサケ漁・サケ養殖の歴史についてご教示いただいた。また、桑原氏からは、村上藩のサケ漁に関する記録の多くが失われていること、そのために伊豆川の研究が貴重な記録となっていることをご指摘いただいた。同日の午後からは、イヨボヤ会館で、三面川における現在のサケ養殖、種川制度を発案した青砥武平治に関する展示を見学した。また、同館には、実際にサケ漁で用いられていた網や筌などの漁具の他、海や山の生業で用いられた民具なども多く展示されており、村上で営まれてきた暮らしについても知見を得ることができた。最後に3月27日には、三面川流域と旧城下町の巡見を行った。
 今回の調査では、三面川におけるサケ漁・サケ養殖の歴史、そして戦前の村上の様子について理解を深めることができた。今後は、今回の調査で得られた知見をもとに、村上での調査が楫西の研究にどのような影響を与えたのか、検討を進めていきたい。

(文責:星洋和)

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那珂湊におけるイワシ漁に関する調査概報

日程:2018年3月11日(日)
調査先:茨城県ひたちなか市(那珂湊漁港、おさかな市場、ひたちなか市立那珂湊図書館など)、
 同県大洗町(大洗磯前神社)
調査者:星洋和

■ 那珂湊漁港(海門橋から撮影)  ■ 観光客でにぎわう那珂湊おさかな市場

■ 那珂湊にある漁網専門店  ■ 揚繰網の導入を推進した大川健介の顕彰碑

 1948年、財団法人水産研究会の研究員となっていた楫西光速は、「鰯揚操網漁業の経営形態」(『水産研究会報』創刊号)や、ルポルタージュ「銚子港」(『文化評論』第8号)など、イワシ漁に着目した調査・研究を発表している。今回調査者は、この時期の楫西の問題意識や漁業に関する問題を理解するために、彼が「鰯揚操網漁業の経営形態」の中で取り上げた地域の一つである茨城県ひたちなか市の那珂湊地区で調査を行った。具体的には、那珂湊の巡見と図書館での文献調査、大洗町に鎮座する大洗磯前神社での調査である。
 今回の調査では、戦後の那珂湊ではイワシの漁獲高が激減していたということが分かった。「磯のたて網、平磯のサンマ、湊はイワシで囃しこめ」という俚諺に象徴されるように、那珂湊はイワシ漁が盛んな町であった。しかし、戦後にイワシの漁獲高が減少したこと、さらに戦後の食糧難という状況下で、那珂湊ではイワシ漁からサンマ漁への転換が進められていった。そして、それは漁船や漁網の大型化、大型漁船所有者の台頭などにつながっていった。
 イワシの不漁と、それによる漁業や関連産業の変化が街に与えた影響については、楫西の「銚子港」の中でも多く述べられている。戦時中から戦後にかけての漁業が抱えていた問題と、食糧難の問題を押さえた上で、もう一度楫西のイワシ漁に関する著作を読み直す必要があるだろう。

(文責:星洋和)

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