共同研究

河原田盛美における本草学的知識から近代勧業的実践の転換に関する研究

河原田盛美の地方からの殖産興業

日程:2016年3月1日(火)~3月4日(金)
調査先:福島県南会津町田島、東
参加者:増田昭子

写真1 河原田盛美から渡部又八・森次郎へあてた手紙(渡部文一家=会津酒造所蔵)

写真1 河原田盛美から渡部又八・森次郎へあてた手紙(渡部文一家=会津酒造所蔵)(クリックにて拡大)

写真2 入小屋(現在は東)の運送屋 萬屋から田島の今生の会津酒造への送り状

写真2 入小屋(現在は東)の運送屋 萬屋から田島の今生の会津酒造への送り状(渡部文一家所蔵)(クリックにて拡大)

 明治初期に明治政府の官僚になり、二十年弱にわたり、水産関係の指導者であった河原田盛美は明治24年に退官して郷里の奥会津の伊南村に帰り、当地方の産業育成に尽力した。
 近世以来、麻(大麻)生産地として名高い奥会津地方は生糸生産地でもあった。ことに、近代においては麻生産よりも生糸生産が中心となり、国内だけでなく、横浜の澁澤商店を通じて海外への生糸輸出をしていた。しかし、奥会津は関東とは距離的に近いにも関わらず、四方を峻険な山に囲まれた地域であったため、物資輸送の便が極度に悪く、生産した生糸輸送に難渋していた。要は、峠越えの輸送路を確保することが急務であった。
 河原田盛美は、明治21年ごろから会津の田島と鬼怒川経由の今市への鉄道敷設を地域の豪農・商たちと野岩鉄道(山王峠)として計画し、自ら代表となったが、日清戦争のため、国策として断念させられた。野岩鉄道により会津と関東の輸送手段は格別の進歩を遂げたはずで、地方における近代産業育成の要になることを目されたが、国内情勢の趨勢にはかなわなかった。一方、河原田の郷里である奥会津地方は、田島からもう一つの駒止峠を越えなければならず、その地域が大宮村、伊南村、富田村等であった。この峠の改修に尽力したのが河原田盛美である。
 今回の田島と東(あずま)の調査は、野岩鉄道敷設の資料と、駒止峠の物資輸送の資料と聞き取り調査であった。ここでは、後者の駒止峠について紹介したい。
 駒止峠の改修工事は明治10年代、20年代に行われていたが、不十分なので明治39年から工事を始めた。当時、河原田は福島県会議員をしており、また、中央政府との交渉もできる立場にあり、駒止峠改修工事にあたって県補助と郡債を発行してその財源を確保して完成させた。完成後の42年12月に県会議会の最中に脳溢血で倒れ、43年1月に福島から若松経由で田島まで運ばれ、野岩鉄道敷設や田島銀行設立でともに活動した会津酒造の渡部又八、その息子森次郎等の出迎えを受けた(河原田の日記『東山日記』の当日の記載)。数日後に橇に曳かれて駒止峠を越えて帰宅した。翌日の又八、森次郎宛ての礼状が写真1である。又八家等の田島近隣の豪農・商とともに地域活性化に取り組んだ人たちとの親交の様子が日記や書簡からうかがうことができる。
 この駒止峠を越えた村が東で、『東山日記』によると河原田は100名近い人の出迎えを受けた。2、3年前の改修工事に果たした河原田の役割を知っていた村人たちの出迎えであった。3、4メートルの積雪のある冬期間の峠越えはすべてが人力で、病身の河原田も橇に乗り、人の力によって峠越えをしている。河原田の駒止峠改修工事によって道幅が2間、場所により3間に拡張された。渡部又八家には、大正・昭和の時代に大宮村や伊南村からの酒注文、空樽輸送、薇の輸送等の荷物が駒止峠の運輸にかんする史料が保存されている(写真2)。東の「運送店 萬屋」の分家の子孫である平野洋三さんは、平野さんの祖父が酒などの運送の仕事をしており、自身も雪の駒止峠を生糸60キロを背負って、田島側の麓の村まで運んだという。当時の生活物資と殖産興業のもとに生産された生糸の輸送状況を資料によって具体的な姿を浮かびあがらせることができた。

(文責:増田昭子)

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河原田調査班総括会議

日程:2016年3月8日(火)
場所:神奈川大学横浜キャンパス 国際常民文化研究機構
参加者:高江洲昌哉、増田昭子、中野泰、中林広一、泉水英計

(1)2014年度から2015年度の2か年間にわたって行った調査班の活動と成果の共有をはかった。
(2)成果論集刊行スケジュールなど刊行に関する事務確認と、成果発表会の日程内容などの確認をおこなった。

(文責:高江洲昌哉)

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河原田盛美の京都・大阪の巡回

日程: 2016年2月7日(日)~2月9日(火)
調査先:京都府立総合資料館、同志社大学図書館、大阪府立図書館、大阪府公文書館
調査者:中野泰

 河原田盛美の水産巡回のうち、この度は、兵庫県の直前に訪問していた京都府、大阪府を取り上げた。京都府の訪問(明治22、23年)は、河原田の前に京都を訪問した水産巡回教師の教授内容を補完することが意図されていたこと、教授内容が、捕獲、製造、蕃殖(『農工商臨時雑報』13号)というように、水産巡回教師が一般的に行う教授内容に通ずるものであったことを確認できた。大阪府の訪問(明治22年)の概略は、国文学研究資料館所蔵の資料、例えば、「(大坂府及兵庫県下対支海産物貿易巡回雑記)」「M22」等で知ることができる。神戸市と異なり、大阪府の『農工商業雑報』などの勧業雑誌は欠号が多く、河原田が執筆したとされる内容を確認することは叶わなかった。だが、地元新聞では、講演内容が、やはり神戸市と同様、大阪商法会議所で講演を行うものであったこと、水産物貿易商を対象に、清国への海産物貿易の実況、大阪港における水産物の実況等を主とするものであったことを確認できた。大阪における水産物商法上の改良点が力説されており、留意される。「因循姑息」たる流通慣行の批判は、農商務省による明治初期の水産政策にのっとったものと言えるが、京都等の水産改良とは異なり、水産物製造と貿易を視野に入れたものとなっている。当時の水産改良の意図が、特定地域の水産の実況を捉えた上のものであるだけでなく、具体的な働きかけを伴ったものであったことが確認できた。

(文責:中野泰)

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2016年2月の国文学研究資料館調査

日程:2016年2月15日(月)~17日(水)
調査先:国文学研究資料館
参加者:高江洲昌哉、増田昭子

 国文学研究資料館に所蔵されている祭魚洞文庫旧蔵史料から河原田盛美に関連する史料を調査し、前回の只見調査の補足になる「伊南川只見川筋利源開展ニ関スル道路改修調査書」を撮影した。その他、河原田盛美・稼吉・末吉書状を撮影した。以下、今回の調査で確認した特記事項のある史料は下記の通り。

1:『南会津蕃語論草稿』は、第3回内国勧業博覧会事務局の反故紙で河原田が審査委員長をしていた乾物類を審査した用紙であることを確認した。
2:『雑記集』、『水産雑集』、『水産関係雑書類』から研究上必要な箇所を撮影した。例えば『水産雑集』には、明治18年に官命によって作成した「水産救荒編」(草稿)が綴じられており、明治18年ということで、『沖縄物産志』との比較材料にも資料が綴じられていることを確認した。また、『水産関係雑書類』には、大日本水産会で、会員からの質問に河原田が答えた資料が綴じられている。このように公私混じった資料が「雑書類」のような名称で綴じられている。通常、私蔵文書の中にある(公文書)簿冊は、組織が保管するものを引き続き、個人が所有したという経緯があるが、これら書類は河原田の職歴変遷がありながらも、「水産」という一貫した主題に即して、作成・収受した水産関係文書を1冊に編綴した簿冊形態になっているところに特徴がある。今後、類例を探して検討していく必要性を感じた。
3:越後と会津にまたがる銀山にかんする史料があり、弘化4年に会津の「白峯銀山山手斧竃割渡帳」があり、会津の鉱山における実態の一部解明の手がかりを得ることができた。
4:河原田盛美宛の書簡では、河原田が主導した改修工事「駒止峠」にかんして浜田南会津郡長からの書簡もみられ、未発見の史料が多く保管されていると推測された。

(文責:高江洲昌哉)

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2015年10月の南会津調査

日程:2015年10月14日(水)~15日(木)/増田
   2015年10月16日(金)~18日(日)/高江洲、増田、松本
調査先:福島県南会津町田島・宮沢、只見町坂田・塩沢、奥会津博物館、南会津町旧河原田盛美家
参加者:高江洲昌哉、増田昭子、松本和樹  

■左/『藤原姓河原田系譜』、右/『會津葦名家記』ほか表紙

古地図『會津御蔵入繒圖』(クリックにて拡大)

現代の地図と古地図を照合

 紅葉美しい秋山と9月の大雨の被害の跡を見ながら、2015年10月の南会津調査を実施した。調査内容の概要は以下の通り。
1.今回は、以前撮影した「河原田文庫目録」との照合を行うため、河原田家所蔵の和書の撮影(時間の関係で表紙など書名が確認できる部分)をおこない、その残存状態を確認するデータの蓄積をおこなった。
2.今年度で本プロジェクトは終了だが、今後の作業のために未整理状態になっている資料に対し一点ごとの中性紙封筒への移し替えや封筒への仮タイトルをつけるなど、今後の研究遂行をおこなう上でも必要な基礎作業をおこなった。
3.今回は只見町の調査(1回だけのパイロット的な調査)をおこなった。今回の調査は、「河原田盛美と地域振興」という研究課題に即して、刊行資料及び河原田家所蔵資料で確認した歴史情報と実際の現地の地理的状況を確認するために実施した。只見を選んだのは、河原田盛美は、(1)地域振興の一環として南会津の鉱物資源に関心を寄せていたが、そうした鉱山の跡地があること。(2)現在の只見線にもつながる野岩越鉄道を構想し、地域の実業家と連携していたことによる。(1)に関しては、作業経験者からの聞き取りや場所の確認、(2)に関しては、古地図と現在の道路を確認する程度であったが、歴史情報と地域情報を確認するという点では大きな成果があった。
4.14日から一足先に南会津入りをしていた増田氏は、田島地域でも古い旅館である和泉屋旅館での聞き取りや旧渡部又八家資料の閲覧、奥会津博物館で野岩鉄道関連資料の収集などをおこなった。

(文責:高江洲昌哉)

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2015年9月兵庫県資料調査

日程:2015年9月28日(月)~30日(水)
調査先:兵庫県公館県政資料館、兵庫県立図書館、神戸市立中央図書館、神戸市文書館
実施者:中野泰

 河原田盛美は日本各地を訪問し、水産技術の改良など諸実践をおこなってきた。この度は、兵庫県への訪問を取り上げた。訪問の概略は、国文学研究資料館所蔵の資料、例えば、「(大坂府及兵庫県下対支海産物貿易巡回雑記)」「M22」等で知ることができる。そこからは、兵庫県への訪問(明治22年)が、清国輸出水産物に関係して貿易商人を対象とする点に特徴があることが分かる。2泊3日の旅程で、勧業に関わる資料調査を、兵庫県公館県政資料館(歴史資料部門)、兵庫県立図書館、神戸市立中央図書館、神戸市文書館にて行った。その結果、河原田は、主として、在神戸の貿易商人を対象に、神戸商法会議所で講話を行っていたこと、その内容が、海産物の貿易、貿易振興のための同業者組合の設立に力点を置いたものであったことが分かった。さらに、河原田は、清国人商人の店を訪ね、インタビューも実施している。河原田の訪問が水産技術の改良だけでない事例として注目される所以である。彼の訪問は、輸出貿易に関わる拠点やネットワークづくりにも留意したものであったことがうかがえる。

(文責:中野泰)

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2015年9月の鳥取調査

日程:2015年9月10日(木)~9月12日(土)
調査先:鳥取県(鳥取市・県立公文書館・県立博物館、米子市・山陰歴史館)
参加者:高江洲昌哉、中野泰

■ 河原田盛美巡回時を伝える新聞記事(鳥取新報/明治21年2月4日号) 、内務部第二課主管事務引継目録演説書より「水産の項目」(クリックにて拡大

調査風景(鳥取県立公文書館)

 直前の台風18号の来襲で心配された鳥取調査も、9月10日から12日までの2泊3日の調査を無事終えることができた。調査内容の概要は以下の通り。
 1.9月10日と11日の午前は鳥取県立公文書館で資料の調査をおこなった(調査直前に臨時休館日になった旨の連絡があったが、無事閲覧をすることが可能になった)。今回の調査では、『知事引継演舌書(明治24年)』や『鳥取県勧業事務演舌書・乾(明治22年)』などを撮影した。また、新聞記事から河原田がどのように水産巡回教師活動をしていたのかを確認することができた。『鳥取県勧業沿革』(明治33年)には、明治14年以降勧費予算一覧表があり、水産巡回教師費は明治21年と22年のみ計上していることが分かった。水産巡回教師の派遣は、農商務省によるトップダウン式の派遣ではなく、地方税を使用して、県側が呼ぶボトムアップ式の派遣であることが判明した(『知事引継演舌書』)。もっとも、この点は、『鳥取県史 近代第3巻経済編』(1969年、409頁)に「明治二十一年、県は勧業諮問会に諮って、農商務省属河原田盛美を招へいし、製品および漁具・漁法の改良を巡回教示した。翌年には、この成果を奨励するため、地方税による補助をして、鳥取で私立因伯水産共進会が開かれた。この会は製品が主眼で、漁具は参考的に扱われたようである。この時、再度河原田盛美を招へいして審査長を委嘱し、巡回教示をもおこなった」という記述があったので、その確認ともいえるが、この文章は、「明治廿四年 内務部第二課主管引継目録演説書綴」と同文なので、県史叙述の典拠資料と思われる。
 当班は研究テーマの関係上、河原田の水産巡回教師の役割を解明するという縦の視点(経歴)が強いが、河原田の関わる水産業勧業政策も、県の勧業政策の一環であるという横の視点(勧業政策)を忘れてはいけないことを再認識する調査であった。

研究会風景

調査風景(山陰歴史館)

 2.9月11日は、13時から17時まで研究会を開催した。今回は水産巡回教師の役割に注目し、その実態解明と、地域の水産業者や水産業勧業政策との関連性について、双方向的な視点から、近代の水産業において水産巡回教師の果たした意義について検討することを目的とするものであった。報告者とタイトルは以下の通り。
 ①中野泰「水産巡回教師と河原田盛美」、②大嶋陽一「鳥取の珊瑚細工とその歴史」、③佐々木貴文「明治日本の水産教育と大日本水産会」、④伊藤康宏「19世紀末山陰の水産業振興と河原田盛美」。
 各報告の要旨を記すと、中野氏は河原田の「復命書」等の構成と前後の復命書の比較などから関心・力点の違いがあったのではないかという内容であった。大嶋氏は、河原田も言及した鳥取の白珊瑚細工業の、その成立から今日の状況に至るまでの歴史的展開に関する報告であった。佐々木氏は大日本水産会が主導した水産業を担う人材を育てる教育機関の変遷について述べられた。中野氏・佐々木氏ともに水産巡回教師をとりあげているが、前後を取り上げることで、その歴史的変容を確認することができた。伊藤氏は、地元の推進者である安井好尚との比較・関係、または籠手田県政の勧業政策の中での漁業の位置づけ等について報告された。限られた時間のなか、4本の報告とも充実した内容で、①水産巡回教師の役割と歴史的展開、②鳥取を対象に地域の水産業勧業政策と水産巡回教師の役割及び水産業の展開を確認し、研究課題解明の一助を得ることができた。

 3.米子市の山陰歴史館では、地域勧業政策に関連する『勧業 御達・上申・願伺・指令』(明治18年)や『製紙巡回教師吉井源太講話筆記』(明治20年)などの資料を撮影した。

(文責:高江洲昌哉)

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2015年8月の南会津調査

日程:2015年8月13日(木)~8月15日(土)
調査先:南会津町旧河原田盛美家
参加者:高江洲昌哉、増田昭子、小野まさ子

「再再興河原田文庫目録」(焼失後大正年間作成)より再購入が分かる箇所(クリックにて拡大)

 緑美しい夏山を見ながら、2015年8月の南会津調査を実施した。調査内容の概要は以下の通り。
 1 今回は、前回に引き続き「河原田文庫目録」を撮影し、文庫目録の撮影を終えることができ、河原田家資料の残存と概要を確認するための基礎情報を得ることができた。
 2 小野まさ子氏は琉球関係文書資料のうち、特に交友関係資料(久米村の人から寄贈されたと思われる冊封使の書、宜湾朝保など琉球の人から送別時に贈られた書など)を中心に1点ごとの大意をつけて整理をした。
 3 未整理箱の資料を確認したところ、河原田盛雄氏の時期に作成・収集した資料(特に在郷軍人会関係資料)であることがわかった。研究班の対象時期としてはズレているが、史料価値として意味のあるものなので、簡易整理をおこない保管措置を講じた(これら資料の取り扱いについては今後の課題といえる)。
 4 奥会津博物館の渡部康人さんに河原田家資料の説明と、今後の協力などについての話し合いを行った。

[写真左から/奥会津博物館渡部さんに資料の説明、墓参報告(河原田盛美の神道墓)、作業風景]

(文責:高江洲昌哉)

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2015年度第1回研究会開催

日程:2015年7月4日(土)
場所:神奈川大学 横浜キャンパス
参加者:高江洲昌哉、増田昭子、中林広一、土井康弘

研究会風景

 『日本初の理学博士伊藤圭介の研究』(晧星社、2005年)の著者であり、神奈川大学非常勤講師で科学史が専門の土井康弘氏をお招きして、「明治期における伊藤圭介の自然研究と学術交流」というテーマで研究会を開催した。伊藤圭介の学問形成と人物交流を中心に話され、シーボルトとの出会いによってリンネの弟子にあたるツュンベリーの『日本植物誌』を譲り受けることで、リンネの確立した植物分類で日本の植物を分類する第一人者になったとされた。また、本草学を土台にした西洋植物学の知識を吸収した伊藤は、整理・分類する能力に優れた「鑑識眼」の持ち主であり、自らの学問知識を物産学として再構築し、「物産学は国益となる」ことを幕末期に主張していたことなどを話された。また、明治期になると、日本の植物に詳しいということで外国人との交渉窓口役となるなどして、伊藤は知名度をアップさせ、交流を広げたと指摘した。ただし、伊藤は整理する能力に優れてはいたが、植物研究として己の技術を進展させることはほとんど無かったので、最初の博士候補になりながらも落選をする。しかし、森有礼文部大臣の強い勧め(長年の研究活動、外国人からの評価)もあって、日本初の理学博士になったとの説明があった。
 今回の土井氏の報告で、分類に特化した研究手法や、近代学問成立期(殖産興業確立期)の橋渡しの役割を伊藤圭介が果たしたことが話され、河原田盛美も手法や境遇に似たような点があったことを確認することができた。さらに、伊藤側の人脈を土井氏の翻刻した書簡資料から交流関係を把握することができ、伊藤と河原田が共通の本草学的知識および人的ネットワークを有していたことを確認できたことは、研究班として大きな成果であった。

 [上段資料画像2点] 出典:土井康弘『日本初の理学博士伊藤圭介の研究』

(文責:高江洲昌哉)

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