熊野水軍小山家文書の総合的研究
三重県鵜殿町、和歌山県那智勝浦町・新宮市・串本町・古座川町での現地踏査、ならびに和歌山県立博物館での文書調査
日程:2019年2月27日(水)~3月2日(土)
調査先:大泰寺(東牟婁郡那智勝浦町)、新宮城下町遺跡(新宮市)、鵜殿城跡・鵜殿一族石塔群(三重県南牟婁郡紀宝町)、日吉神社・六勝寺・橋爪家屋敷跡・蔵土宝篋印塔(東牟婁郡古座川町)、古城山城・小山井戸・成就寺・稲荷神社・城山(東牟婁郡串本町)、和歌山県立博物館(和歌山市)
調査者:坂本亮太、北野隆亮、佐藤純一、薗部寿樹、関口博巨、弓倉弘年
■ 新宮城下町遺跡の出土遺物見学 小山井戸の見学
日吉神社什物類の調査
28日は、熊野川周辺に関わる遺跡・城館跡の調査を実施した。大泰寺では永和5年(1379)の板碑の見学をした。その後、新宮城下町遺跡の遺構・出土遺物の見学をおこない、熊野川河口部の流通拠点としての性格やその重要性を知ることができた。あわせて、対岸に位置する鵜殿城跡・鵜殿氏一門の墓の踏査・見学をし、熊野水軍鵜殿氏の拠点等の確認をすることができた。
3月1日は、西向小山氏に関わる故地の踏査をおこなった。西向小山氏が屋敷・城を構えた跡(小山井戸・成就寺・稲荷神社・城山)の踏査を実施し、西向小山氏の拠点を復原するための材料を得た。さらに、西向小山氏と密接に関わる、古城山城・日吉神社・蔵土宝篋印塔・六勝寺・橋爪家屋敷跡の確認もした。そのほか、西向小山氏の子孫のかたへの聞き取り調査もおこなった。西向小山氏の拠点(とその変遷)を知ることができたとともに、西向小山氏が古座川河口部で有した勢力の大きさも理解することができた。
3月2日は、久木小山家文書(中世文書分)の調書(翻刻・寸法計測)作成、近世文書・由緒書類の調査をおこなった。今回の調査で、久木小山家文書の中世分については、一通りの調査を終わらせることができた。
(文責:坂本亮太)
徳島での現地踏査・資料調査
日程:2019年2月18日(月)~2月20日(水)
調査先:鶴林寺(徳島県勝浦郡勝浦町)、海陽町立博物館(海部郡海陽町)、徳島県立図書館(徳島市)、
牛岐城跡、地蔵庵跡、泉八幡宮(阿南市)、中郷城跡(小松島市)
調査者:坂本亮太
■ 地蔵庵跡丁石 泉八幡宮
鶴林寺丁石(八丁石)
18日は、鶴林寺の町石(丁石)の確認を行った。鶴林寺の丁石は主に南北朝に建てられたもので、そのうち八丁石(裏面)には「貞治五年」(1366)・「願主清原氏実」と銘があり、これら丁石の造立に安宅氏・周参見氏が関与した可能性が指摘されている(『阿波遍路道 鶴林寺道・太龍寺道・いわや道』[徳島県教育委員会2010])。
19日は、海陽町立博物館・大里古銭出土地の見学をおこなった。大里古銭は大量の古銭(宋銭)が出土したことで著名だが、阿波国の備前焼流通においても重要な場所であることが近年指摘された(北野隆亮「備前焼流通からみた紀伊水道内海世界」[中世都市研究会・徳島大会報告2018])。日置川流域と比較するうえでも重要な遺跡であることを再確認した。また、徳島県立図書館で郷土資料(自治体史・郷土雑誌・報告書等)の確認をおこない、紀南武士と関わる史料を収集することができた。
20日は、安宅氏が関与したと指摘されている牛岐城跡の見学をおこなった(ただし『日本城郭大系』第15巻[新人物往来社1979]で触れられているのみで根拠は不明)。さらに、地蔵庵跡(新工地庵)に所在する「願主清原氏実」という銘がある丁石の確認をした(西本沙織「阿南市那賀川町工地の花崗岩製丁石について」[『史窓』44号、2014])。鶴林寺の丁石とあわせて周参見氏が阿波に残した足跡を推測させるものである。また観応2年(1351)に竹原荘の地頭職を得た安宅氏が文和3年(1354)に再興したと伝えられる泉八幡宮、およびその付近にある本庄城跡の現地踏査、あわせて泰地氏の城館跡と考えられている中郷城跡(泰地城)の踏査をおこなった(『徳島県の中世城館』[徳島県教育委員会2011])。
小山家文書や安宅家文書などに表れる所領(小松島市・阿南市)付近に、紀南武士の活動の痕跡が見られる点は注目される。小山家文書等、熊野水軍(紀南武士)の動向を探るなかで、阿波との関わりについても慎重に検討していきたい。
(文責:坂本亮太)
東京・神奈川での資料調査
日程:2019年2月13日(水)~2月15日(金)
調査先:国文学研究資料館(東京都立川市)・神奈川大学日本常民文化研究所(神奈川県横浜市)
調査者:坂本亮太
国文学研究資料館(外観)
神奈川大学日本常民文化研究所所蔵の筆耕資料
14日は国文学研究資料館において、徴古雑抄(阿波国)の閲覧・写真撮影をおこなった。徴古雑抄は明治時代に国学者小杉榲邨が全国の寺社・旧家などの古文書を書写・収録した資料集であるが、そのうち阿波国分の調査をおこなった。そのなかに、紀南武士である周参見氏・安宅氏が泉福寺に寄進した文書が記されており(文和3年〈1354〉2月日付け隆善寺文書)、紀南の武士(熊野水軍)が阿波国竹原荘(徳島県阿南市)に関わっていたことが判明する。そのほか、「故城記」などの記録により、田野浦(徳島県小松島市)に居城をもった安宅氏、中郷(徳島県小松島市)に居城を持った泰地氏の存在を知ることができた。
15日は神奈川大学日本常民文化研究所において、所蔵の筆耕資料の閲覧をおこなった。白浜漁業協同組合文書、瀬戸村庄屋南庄五郎家文書、橋杭区有文書、古座区有文書、津田源三郎家文書、樫野区有文書、太地角右衛門家文書、下田原区有文書など、(東西)牟婁郡内の筆耕資料の確認をおこなった。いずれも近世文書ではあるが、江戸時代における熊野地方の浦・港の状況、地名や由緒などに関わる資料を中心に確認し、中世における紀南武士の活動や拠点などについて関連する資料の確認をすることができた。
(文責:坂本亮太)