平成25年度 第1回共同研究会
日程: 2013年 6 月 29 日 (土) - 30 日(日)
場所: 神奈川大学 日本常民文化研究所 および渋沢史料館
参加者: 高城玲、井上潤、原田健一、清水郁郎、小島摩文、飯田卓、羽毛田智幸、因琢哉、岡田翔平、小林光一郎
本年度第1回目の共同研究会を開催した。
6月29日に神奈川大学日本常民文化研究所で開催した研究会の内容は以下の通りである。
1. 報告(1)「2012年度の個人調査と公開研究会での報告(薩南十島調査とその後への影響:仮題)について」 羽毛田智幸
2. 報告(2)「公開研究会での報告(アチック・ミューゼアムの研究における渋沢敬三のポジション:仮題)について」 小林光一郎
3. 報告(3)「公開研究会での報告(未完の映像民具学:仮題)について」 飯田卓
4. 国際シンポジウム・公開研究会について(全員)
5. 資料の整理状況について(全員)
6. 『国際常民研究叢書』について(全員)
また6月30日には、渋沢史料館で渋沢栄一及び渋沢敬三に関する展示を見学し、渋沢敬三没後50年に関連する基礎資料とした。 (高城玲)
資料調査(東京) 【 渋沢史料館所蔵渋沢敬三関係フィルムの調査 】
日程: 2013年 3月 23 日(土 )
訪問先: 渋沢史料館
実施者: 羽毛田 智幸
アチックフィルム・写真および、アチックミューゼアムの薩南十島調査について、渋沢史料館所蔵の渋沢敬三関係フィルムの撮影内容の調査を行った。
渋沢史料館にはアチックミューゼアムの調査のほか、既製フィルムや渋沢家の家族親族を被写体とするフィルムが所蔵されている。今回はこのうちアチックミューゼアムの調査活動に関する31本について、デジタル化されたDVDの映像をもとに内容の確認をおこなった。
常民研所蔵のアチックフィルムは、従前は龍門社に保管されていたフィルムであり、今回の調査対象である渋沢史料館所蔵フィルムとは本来同一の資料群と考えられていた。そのため、双方のフィルムが補完関係にあるのではないかと、想定しての調査着手であった。
私たちの研究グループでは、アチックミューゼアムの薩南十島調査に着目してアチックフィルム・写真をもとにした調査研究を進めている。この点において、渋沢史料館所蔵フィルム「十島字幕」については、常民研所蔵アチックフィルム「十島鴻爪」に使用されている字幕のみが収録されたものであることが確認された。収録された字幕は2通りあり、これは実際につかわれたものと下書きのものであろう。
「十島字幕」については字幕のみで現地の映像等は含まれなかった。しかし、他のアチック調査に関する映像では、一連の調査行程でありながら、アチックフィルムには収録されなかったもの、あるいは意図的に別のフィルムとして編集されたものなどが散見された。
今回は短時間の調査で、映像内容の詳細な被写体分析までは至らなかったが、双方のフィルムがさまざまなレベルでの相互補完関係にあることが確認できたのは大きな成果であった。今後は再調査を行い被写体の分析につなげていきたいと思う。 (羽毛田 智幸)
資料調査(茨城) 【 流通経済大学図書館所蔵の祭魚洞文庫調査 】
日程: 2013年 3月 22 日 (金)
訪問先: 流通経済大学図書館
実施者: 羽毛田 智幸
アチックフィルム・写真および、アチックミューゼアムの薩南十島調査について、流通経済大学図書館所蔵の祭魚洞文庫について調査をおこなった。
祭魚洞文庫は言うまでもなく、アチックミューゼアムに蓄積された書籍を受け継ぐ資料群である。常民研をはじめ、中央水産研究所や国文学研究資料館など同文庫を所蔵する施設は他にもあるが、流通経済大学図書館の所蔵資料は多くの分野の資料が含まれる文庫の核というべき資料群である。
今回は同文庫について、私たちの研究グループの調査対象であるアチックミューゼアムの薩南十島調査に関する資料の閲覧をおこなった。
薩南十島調査については、これまではアチックからの彙報の刊行はなく、同人や調査参加者が各自で雑誌や学会誌に投稿しているものが確認されていた。この動きにつづくものとして、調査参加者である谷口熊之助(当時鹿児島高等農林学校教授)による『十島村探訪記』を同文庫の中で確認した。
アチックフィルムや谷口氏撮影のアチック写真との照合はこれからの作業であるが、調査>写真>文字記録という流れが確認できる貴重な資料といえる。
この他にも、十島調査にあたって事前に各島で用意されたと見られる資料のファイルを確認した。子爵渋沢の訪問にあたって、当時の十島村では周到な事前準備がなされたことがここからわかり、こうした現地での事前準備の成果の大きさが、アチックからの彙報の刊行に結びつかなかった原因である可能性は否めない。事前準備の詳細については、その資料の精査をおこなう必要があり、今後の課題である。
今回はごく一部の資料の内容を確認したに過ぎず、今後も再調査をおこないたい。
(羽毛田 智幸)
調査(山口) 【 周防大島文化交流センター所蔵宮本常一写真調査 】
日程: 2013年 2月 25日(月)~ 27(水)
訪問先: 周防大島文化交流センター
実施者: 羽毛田智幸
周防大島文化交流センターが所蔵する、アチック同人であった宮本常一撮影写真に関する調査をおこなった。宮本が撮影した10万コマにおよぶ写真の整理・保管・展示活用・調査研究と全般について担当者であるセンターの高木氏と意見交換をした。
残念ながら神奈川大学所蔵のアチック写真と同一のものは確認されなかったが、これは主に昭和30年代以後にカメラをもって撮影をしていた宮本の活動を裏付けるものであった。研究者によって撮影された膨大な数の写真資料群について、整理やデータベース構築をおこなうにあたって、その撮影者の研究内容や活動を考慮するのは当然であるが、時代の経過とともに被写体内容の検証が行いにくくなっている現状がある。複数の人間によって撮影されたアチック写真はその傾向が顕著で、一概に宮本の写真資料群と比較することはできないが、日記や撮影記録などの資料との突き合わせなど、地道な整理・研究が必要であることが再確認できた。
今回はセンターのご厚意で、アチック関連書籍のみならず、すべての宮本常一の蔵書も拝見させていただいた。戦災によって一度は灰燼に帰した蔵書であるが、その後は貴重な戦前の雑誌類・書籍が集められており、現在は充実した文庫となっている。 (羽毛田 智幸)
写真: 周防大島文化交流センター 外観 (筆者撮影)
公開研究会 「南と北の船」・合同公開研究会 「日本の船」 参加報告
国際常民文化研究機構 共同研究グループ 成果発表会
日時: 2013年2月16日(土) 09:30-16:30
会場: 神奈川大学横浜キャンパス 1号館308会議室
【午前の部】 公開研究会 「南と北の船 —日本列島の船造りの多様性のルーツ—」
【午後の部】 合同公開研究会 「日本の船 —技と名称—」
~ 公開研究会 「南と北の船」 ・ 合同公開研究会 「日本の船」 参加報告 ~
小島 摩文
■ 公開研究会 「南と北の船 —日本列島の船造りの多様性のルーツ—」
ミクロネシアと北方アリュートの船つくりの詳細な報告があり、大変興味深かった。門田修氏による地元に密着した長期取材の成果である映像とお話、実際にご自身も船をつくられる洲澤育範氏による写真や実物を交えたご発表はどちらも具体的で勉強になった。特に門田氏のお話からは現地の方々との交流のあり方が参考になり、映像作品としてみる以上に口頭での詳しい解説もいっしょに伺えたのが収穫であった。また、洲澤氏のお話の中では、三人乗りと呼ばれているカヤックが、入り口が三ヶ所あるというだけで、三人以上乗れるというご指摘は、“民具研究”、“博物館展示”の難しさ、危うさを考える上で衝撃的だった。
後藤明先生のお話は、船についての知識に乏しい私にとっては午前・午後の研究会全体を聞く上で有意義な基礎を与えていただいた。また、前日から38度の熱があるとはおもえない大西秀之先生のあいかわらずの巧みな話術もひさしぶりに聞くことができ懐かしかった。熱のせいか、ちょっとあつすぎ?(いやいや、いつも通りか)
■ 合同公開研究会 「日本の船 —技と名称—」
船についてきちんと調査したことも勉強したこともない私にとっては、午後の昆政明先生、真島俊一先生のご発表はただただ感服するところでした。特に昆先生のレジュメの船の分布図や真島先生の断面形による構造分類表は圧巻で感動しました。また、司会の神野善治先生の船大工との交流のお話も大変勉強になりました。全体としてフィールドワークの大切さ、楽しさ、難しさを再確認することができ、わくわくしながら拝聴しました。
昆先生の船の呼称についてのご発表では、「名前」「名称」の難しさをあらためて感じました。特に気になったのは「本名」「固有名」という用語で、個人的には違和感がありました。「固有名」や「用途名」とは別に「構造名称」「大きさの区別に起因する呼称」「蔑称」があるということでしたが、個人的には「用途名」や「構造名称」「大きさによる区別に起因する呼称」などから「固有名」「蔑称」といえる「名前」が立ち現れるのではないかと感じました。「フネ」という言葉自体が「船」「舟」の意味に使われるのは、そもそも「構造名称」だと私は思うのですが、だとすれば、民具全体の名称の問題からみれば、「船」も広義の「フネ」の一例でしかないようにも私には思えます。
船に集中した一日で、会場にも船に関心を持っている方々が多数来られていたようで、船の奥深さ、幅広さに触れることができた有意義で濃密な一日でした。
平成24年度 第2回共同研究会
日程: 2013 年 2 月 10 日 (日)
場所: 神奈川大学 日本常民文化研究所
参加者: 井上潤、原田健一、小島摩文、清水郁郎、羽毛田智幸、高城玲、小林光一郎、因琢哉、岡田翔平
今年度第2回目の共同研究会を常民研で開催した。
研究会では主に以下の内容に関する発表と全体での討議が行われた。
1. 「渋沢敬三の画像資料認識」(井上潤)
2. 2013年度成果発表の個別テーマ・構成案について(全員)
3. 2013年12月開催第5回国際シンポジウムの公開研究会について(全員)
4. 『国際常民文化研究叢書』について(全員)
井上発表では、アチックフィルム・写真の原点とも考えられる渋沢敬三の幼少期における「観察眼」にまでさかのぼって議論を展開した。また、渋沢の「実業史博物館」構想にみられる画像資料認識や『絵巻物による日本常民生活絵引』にみられる画像資料認識との関連にも言及し、多角的で多様な資料から渋沢敬三の画像資料認識を検討する必要性を指摘した。引き続く討議では、アチックフィルム・写真をより広く「ビジュアル資料」として捉える可能性についても議論された。
また、全体での討議では、上記の2〜4を中心に主として来年度に予定される公開研究会と成果刊行に関して、個別のテーマ・構成案発表と議論が行われた。 (高城 玲)
— 共同研究者の連携強化に関わる第4回国際シンポジウムの参加報告 —
第4回国際シンポジウム 「二つのミンゾク学 —多文化共生のための人類文化研究—」
Ⅰ部: 国際シンポジウム 12月8日(土) 10:30-17:30 (16号館セレストホール)
「民族の交錯—多文化社会に生きる—」
Ⅱ部: 公開研究会 12月9日(日) 10:00-17:30 (16号館視聴覚ホールB)
「ミンゾク研究の光と影—近代日本の異文化体験と学知—」
会場:神奈川大学横浜キャンパス
~「国際常民文化研究機構 第4回国際シンポジウム 二つのミンゾク学—多文化共生のための人類文化研究—」を聴講して~
小島摩文
国際シンポジウム「二つのミンゾク学」に参加した感想を述べます。まず、2日目の公開研究会の感想から述べ、そのあと1日目のシンポジウムの感想を述べます。これは、それぞれの内容の筆者の専門(民俗学)との遠近によるものです。
■ 平成24年12月9日(日) 2日目 公開研究会 「ミンゾク研究の光と影—近代日本の異文化体験と学知—」を拝聴して
1997年、私はつとめていた博物館をやめ、総合研究大学院大学に入学し、基盤機関である国立民族学博物館〔以下民博〕に大学院生として通いはじめた。その頃というのは、「『大東亜民俗学』の虚実」(川村 湊 1996/7) や「民俗学の政治性」(岩竹 美加子 1996/9)などが出版された直後で、民族学 / 文化人類学の方々から「民俗学者はそれらにどう答えるのか」とよく詰問されました。そのたびに私は、民族学 / 文化人類学の方が反省すべき点は多いのではないか、ということと、民俗学は戦時中に時流に乗ろうと思えばいくらでも乗れたのにそうしなかったことなどを主張したものでした。
今回の研究会を聞きながら、それからずいぶんと時間がたったものだと感じました。当時の民博におられた清水昭俊先生、全京秀先生がご発表であったのも当時を思い出すきっかけだったかも知れません。
また、ついでに、当時はサルベージ調査批判や本質主義批判もすさまじく、これまた民俗学はどう答えるのかよく質問されました。院生には他に民俗学専攻の学生がいませんでしたから、私一人で引き受けなければならず、おかげでずいぶん鍛えられました。サルベージ調査批判に関しては、私は、民俗学は歴史研究だと思っているので、サルベージ調査自体が民俗学の方法だと思っています(もっとも、サルベージ調査というものが、実際に何をさしているかは、実はよくわかっていません)。また、本質主義批判もおもしろい視点だとは思いますが、本質主義批判自体が、本質主義に陥らざるを得ない論理的あるいは方法論的欠陥を持っているように感じ、なじめませんでした。いきおい私自身は本質主義者のように振る舞うことになりがちでしたが、しかし、民俗学自体は本来(あるいは”本質的”に)、反本質主義的あるいは構築 / 構成主義的なものだと考え、そのように主張してきました。構築主義以前に構築主義的な考え方があるわけがないという人もいましたが、民俗学研究の中心は説話研究であり、すなわち「お話」の研究です。歴史学からよく批判されてきた、伝説の研究や河童の研究などに代表される対象はまさに社会的に構成されたものであり、民俗学はそのことを前提に成り立っている学問です。ですから"本質的に"民俗学は本質主義に陥らない学問だと思っています(もちろん不断の反省は必要ですが……)。
そうした1997-2000年を民族学/文化人類学研究者のなかで過ごしたことは私にとっては、民俗学を客観的に見直してみるよい機会ではありました。
もう一つ、今回の公開研究会が、私にとって有意義かつ最初から興味深く聞くことができた理由は「学史」に対する私の心境の変化があったからです。これまで、私は、学内で学史の研究をする意味を見いだせずにいました。今回の公開研究会でも、木名瀬高嗣さんが言及したように、民俗学、民族学の方法で学史を書くことができないからです。民博のある方がある分野(民族学 / 文化人類学ではありません)のお話として、学史が盛んになるのはその学問でやることがなくなったからだとおっしゃったと聞いたことがありますが、私も同意見でした。菊地暁さんが「学史は棚卸だ」とおっしゃっていて、それはその通りだと思うのですが、そのあと商売がつづけられるか、あるいは義務でもないのに(これも議論があるかも知れませんね)、棚卸をする気になるのは、やはり、ほかにやることがないからだろうと思います。学史と学説史を分けてとか、分けられないとかいろいろな意見がありましたが、私としては、研究史は学問の内ですが、学史や学説史は方法として民俗学、民族学 / 文化人類学はその学問の中に持っているわけではないと思ってきました。
学生時代に習った科学史の知識としては、なぜ哲学が物理学、自然科学の学史をするのかを徹底的に問い直しながら、しかし、科学史は物理学者や科学者ではなく哲学者によって書かれるべきだと習いました(あまり、いい気になって人文科学者が自然科学のタームをいじっているとソーカル事件のようなしっぺ返しもありますが)。物理学は物理学史を書く方法を持っていないからです。同様に民俗学、民族学 / 文化人類学でもディシプリンとしてはそうした方法は持っていないと考えてきました。ですから、坂野徹さんの様な科学史の研究者が民俗学、民族学 / 文化人類学にとってはありがたいのです。もっともそうした外部からの学史に対しての反論は学界内から大いにすべきだとも思います。
今回の公開研究会に先だって、私は角南班の報告書において、他の方の論文に対してコメントを書く係を仰せつかりました。しかし、他の論文とコメントとが締切が同日ということで(共同研究の会合には参加し、途中経過などは伺ってきたとはいえ、完成原稿を見ずに)詳細なコメントはできないことから、物質文化研究(特に民具学)に関する簡単なまとめをし、その上で今後の望ましい物質文化研究の提言をすることにしました。結局、民具研究の学史めいたものを書くはめになったのです。書いてみていろいろな発見があったのですが、要は菊地さんのいう「棚卸」としての意義の大きさに気がついたということでしょうか。
そんな訳で、以前は(内部からの)学史というだけで、反感を持っていましたが、今回は素直にお話を聞くことができ、大変意義深いものとなりました。
一方で、「組織は、自己保存を計るものだから」という泉水英計さんの言葉が、とても印象に残りました。一度出来てしまった文化人類学 / 民族学はその対象を失ってもなおその組織を維持しようとしているのかも知れません。自らその対象がすでにないことを宣言しながら、方法も理論も対象もどこかにシフトしながら、しかし、常に居心地の悪さにいらだっているように見えます。
『民俗学という不幸』(大月隆寛, 1992, 青弓社)が出たときに、我が師・下野敏見は居酒屋で、その本を手に持って「みなさん、これはもう読みましたか」と研究室の学生に問いかけた。ほとんどの院生がすでに読んでいて、意見を求められた。何を話したか、私自身のことも他の院生のことも忘れてしまったが、一巡した後、下野敏見は、「ぜひ、大月さんを鹿児島によびたいと思うが、みなさんはどう思いますか」と提案した。この民俗の宝庫である鹿児島を一緒にあるいたら、彼もたちまち、民俗がまだ失われていないということに気付くにちがいないと、力説した。
私は、口に出して話したか、黙っていたか記憶にないが、1987年のオランダでの出来事を思い出していた。宮崎恒二先生のコーディネートで、ライデン大学で日本語を勉強している学生・院生と対話する機会があった。そこで、日本に留学し、日本を研究しているというオランダ人の学生が流暢な日本語で、「日本に行ってみたけど、日本は何もヨーロッパと何も変わらない」と真顔で話していた。この考え方は当時あちこちで出合っていたので、またかという思いであったが、日本でも文献を読んで村に入ってみたら、家にカラオケはある、衛星放送は入っている、というわけで、都会と何も変わりません、文献に書いてあることはウソです、という物言いが流行っていた。
だから、大月隆寛が鹿児島に来ても、何も見ないし、何も感じないのだろうとおもった(もちろん、ご本人が来て何も感じないだろうという意味ではない。『民俗学という不幸』の著者が本に書いてある丸ごとの足し引きなしの人間ならそういう結末になるだろうということである。民俗の宝庫は鹿児島に限らないし、大月氏もどこかの民俗の宝庫を歩いた上での『不幸』なのでしょうから)。
それほどまでに、「中央」と鹿児島では“民俗学の危機”にたいしての意識の差があり、私たちは何も「中央」とは共有していなかった。それは、いまも、あまり変わっていないのかも知れません。
中生勝美さんの“「大東亜共栄圏」の民族学—民族の戦争利用—”ですが、スパイ小説のようで、おもしろかったです。懇親会で金京秀先生からイギリスの海軍では「民族学」が必修科目であると伺い、ヨーロッパの懐の深さを感じました。坂野さんが鋭い質問をしていて、さすが、と思ったのですが、どうしても内容が思い出せません。ツンドラの鬼の話だったか?
清水昭俊先生の“民族学の学術動員—平野義太郎の戦時プロジェクト—”ですが、全体の印象として「動員」というキーワードが気になりました。ひところ「戦争協力」ということばがはやりましたが、このご発表では「協力」を「動員」と言い換えることで、極力「責任」を回避しようとしているようにも思えました。ご発表の中に登場する鶴見祐輔とともに後藤新平人脈のなかの平野義太郎というのも考えてみる必要があるのかなあと思いました。今、柳田国男と梅棹忠夫を考える上で鶴見俊輔が気になっています。昔からとらえどころのない不思議な方だと思っていたのですが、世代をさかのぼるとさらに謎が深まります。清水先生が平野のことを「あまりよく知られていない人物」と紹介したのに、坂野さんが「われわれもよく知っていますが」と呼応されたのが印象的でした。
戦争協力の問題は、現代社会における学術の問題としては科学研究費に代表される助成金の問題と不可分ではないでしょう。民俗学、すくなくとも柳田は、この問題からはフリーであろうと歯を食いしばっていたと、私は思います(あるいは歯を食いしばるまでもなくスルーしていたのかも知れません)。
坂野さんも批判していましたが、清水先生は、動員されて仕事としてするなら、せめて“いい仕事”をして欲しいと、おっしゃっていましたが、サボタージュという手法もあるのではないかと思います。とはいえ、岡正雄よりは平野義太郎の方がましだという議論はおもしろく拝聴しました。
また、坂野さんから欧米の“戦争協力”と日本のそれとを比較する必要もあるのではという指摘にたいして清水先生がご自身の力の及ばないところだという意味のことをおっしゃられて、学問の方法を厳密化しようとする心性と、真実を求めようとする心性とはべつのものなのだなあとあらためて感じました。
角南班のコメント原稿のため(早川孝太郎、宮本勢助の論文を引用するため)、1943年発行の『民族学研究』8-2を見ていたら、「学界彙報」に「民族研究所の創設」の記事があり、設立準備委員の任命があったとして1ページを使って委員と幹事の紹介をしていました。
宮本勢助の論文は「モモヒキとハカマの関係に就いて」というタイトル。国分直一の台湾の貝輪についての論文と、土方久功の報告などもあるが、概ね戦争の影は感じらない。
昨日、夕飯時に小学校5年生の娘が、「お父さんの論文って、一般の人には何の意味もないよね」と突然いいだし、その真意を問う間もなく「そうだね」と答えてしまったのだが、学問の独立性を考えると社会性などないほうが、いいように思われる。
梅棹忠夫もどこかで学問に有用性などいらないと書いていたが、梅棹流カード術で、引用はメモを取らなかったので忘れてしまった。天才の技術は凡人には使えない。いや生兵法は大けがの元ということだろうか。『梅棹忠夫のことば』(小長谷有紀)には、三高時代の数学の教師秋月康夫先生が、自分の数学は何の役にも立たないものだとして実用性を拒否し、「人類の栄光のためにあるのだ」という言葉に梅棹はしびれたと紹介されている。私も娘に、論文は「人類の栄光のためにあるのだ」と言い放ちたかった。
全京秀先生の”泉靖一のニューギニア調査と軍属人類学—大東亜戦争と学問—”は、全体として大変興味深くうかがいましたが、とくにジェームズ・スコットの「hidden transcript」をこの場所であえて紹介しているところに興味を感じました。清水先生の「動員された以上はしっかりやってほしい」という議論とこの「hidden transcript」の議論は併せて考えてみる必要があるかも知れません。虐げられた人々だけの問題ではなく、エリート研究者にとっても、評価されたい、出世したい、安定して研究したいという欲望だけでなく、信義の問題として自己の行動を問い直す必要もあるでしょう。戦時中の“戦争協力”の問題は、現代の学問に置き換えれば、それは科学研究費に代表される国家(もしくはそれの代理機関である様々な法人)からの助成金の問題でもあるでしょう。清水先生がしきりと、当時のことは問えないとおっしゃるのは、おそらくそれが単純に今日的な問題にもなることをご存じだからだと感じました。
懇親会でお話した感じでは、全京秀先生は、その点では割り切って(というよりは確信を持って)、それでいいのだと考えておられるようにお見受けしました。それは、北朝鮮といまだ休戦中なだけで戦争中である大韓民国の研究者の自然なありようなのだ、とも思いました。
菊地暁さんの“民研本転々録—民族研究所蔵書の戦中と戦後—”は、手法、あるいは作業としてとても惹かれるものがある研究で楽しく拝聴できました。いろんな組織の蔵書印があちこちに押された書籍の姿は、故宮博物館などでみられる歴代所有者の皇帝達の印が所狭しとおされている巻物を思い出してしまいました。重信幸彦さんの解説のようなコメントも、気づかなかった事が多く、勉強になりました。重信さんからラベルを貼る位置について言及がありましたが、図書館員のメンタリティーとして、なにか政治的なことを差し挟むことはしないのではないかと思いました。背表紙でも著者名があろうが、巻号があろうが、内容の見出しがあろうが、決められた場所にお構いなしにラベルを貼る方々ですので、規則に従って次々と貼っているだけのようにも思いました。橋下知事がつぶした国際児童図書館の蔵書が中之島でどのような扱いを受けているのか心配です。そのことを重信さんの話を伺いながら思い出してしまいました。私たちとは異なる情熱で図書と向き合っている図書館員の不思議をも、あらためて感じるご発表でした。
木名瀬高嗣さんの“「アイヌ民族綜合調査」と戦後のミンゾク学 / アイヌ研究”は、泉靖一の調査のあり方、すなわちこの稿の最初に触れたサルベージ調査と批判されるような調査のあり方を丹念に描いていて迫力がありました。先にも触れたように、木名瀬さんは人類学として人類学史研究をしたいととおっしゃっていましたが、やはり、それは無理というものでしょう。今回のご発表をうかがっても、人類学の手法が使われているとは、私は全く思いませんでした。むしろ文学研究の作家論に近い手法でしょう。手紙、メモ、草稿、当時の新聞、雑誌、社会情勢、そして関係する人々へのインタビュー、さらに関係する人々の子孫へのインタビューなどさまざまな資料を駆使してその思索と作品とに迫る方法です。人類学者が人類学者を一人の作家として研究すればいいので(それはグループでも同じ事です)、その手法は作家研究の手法だということです。木名瀬さんのご研究自体は間違っていないだろうし、メモや手紙を読むのもおなじフィールドを持つ人類学者であることが望ましい(いやむしろ、「そうあるべき」でしょう)ですが、その研究自体は人類学ではないでしょう。でもそうした研究で学位も取れると思います(べきだと思います)。でも、人類学ではありません。もちろん民俗学でもありません。それを人類学だといいはるのは、私は間違っていると思います。
また、木名瀬さんに対する坂野さんからの「泉は資料があったから調査できたが、資料がない人はどうするのか」という意味の問題提起がありました。私には二つの意味がよみとれたのですが、ひとつは、公平に研究するためには資料のない人にあわせるべきではないか、という考え方。すなわち、すべての研究者の資料が公開されているわけではないので、公開されている研究者だけが、このように非難されるのはおかしいのではないかという考え方。もう一つは字義通り(泉の場合は資料があったからよかったが)、資料がない研究者の研究はどのようにすすめるのかという単純な質問である。木名瀬さんがどう答えたか(あるいは答えるタイミングがなかったのか)忘れてしまったが、そもそも坂野さんはどちらの意味でのご発言だったのか、気にかかるところです。寄贈した資料がこのように使われるのであれば、だれも資料を寄贈しよう、公開しようとは思わなくなるでしょうね、よほど自信がなければ。
谷口陽子さんの“米国人による戦後日本調査とその展開”は、外国での調査の難しさを調査地からながめたものだと思いました。ここで提出されたさまざまな違和感は、調査される側がいだくごく自然な感情なのだと思いました。1日目のシンポジウムで私自身が発言したように本土の人々が語る沖縄にも同様な違和感があります。もちろん、私の発言自体も沖縄の他の方々からは違和感をもつのでしょう。
川田順造先生からのご指摘があり、それに泉水さんが答えてくれたので、谷口さんの議論の全体像を見渡すことができました。「公開研究会」の難しい面がでたのだと思いました。
聴衆はこれまでの議論を了解しているわけではなく、発表用にコンパクトにまとめたものを聞いて全体を想像するしかないので、事前の了解事項が、共同研究会の中の方々と聴衆とではかなりのギャップがあることを前提にすすめる必要がある、と改めて感じました。
王京さんの“中国は柳田國男にとってどんな意味があったのか”は、正直に申し上げて、今回の発表の中でいちばん興味深く、うかがいました。柳田と漢文の素養、和歌、俳諧との関係などにずっと興味がありながら、力不足からなかなか理解が進みませんでしたが、王京さんのご発表でとても理解が進みました。今ちょうど、私自身、柳田国男と書籍との関係を考えているところで、『竹馬余事』に興味を持っているところだったので、『喰眼録』のことなども初めて聞いたのですが、よい情報を得られました。王京さんの柳田の読み込み具合もうかがわれるすばらしい発表でした。おそらく、定本・全集の索引だけでは得られない網羅性があったように感じました。
また、金広植さんのコメントもすばらしかったです。日本人よりも、中国人、韓国人のほうがよく柳田をよめているのだと実感できるお二人のお話でした。
重信さんのコメントの中で、「民俗学は歴史学であると同時に社会学でもある」あるいは「民俗学には歴史学的ないき方もあるし、社会学的ないき方もある」という意味のご発言がありましたが、私自身は民俗学は歴史学だと思っています。社会学的な民俗学といわれているものをみると、民俗学といわずに社会学ですればいいのに、と思います。民俗学は決して農村社会学ではないので。社会学的な民俗学と社会学とをわける方法的な違いがあるのでしょうか。
人類学者の中には民俗学と人類学の区別が、日本を対象とするか日本以外を対象とするかぐらいしか思いつかない方もいらっしゃるようですが、私の理解では民俗学は文字のある社会を本来研究する学問、民族学 / 文化人類学は無文字社会を本来研究する学問だと思っています。民族学 / 文化人類学は文字のある社会も方法的に研究することができますが、民俗学は文字のない社会を研究することは方法上、不可能です。ただ、民族学的な蓄積があり、ある程度時代をさかのぼれる資料があれば、民俗学的な研究も可能かも知れません。結果、民俗学は歴史学であり、文化人類学 / 民族学は社会学です。そして、民俗学は自国が研究しやすいし、文化人類学/民族学は自文化でないほうが、楽しいし客観視できるという傾向は生じるかも知れません。でもそれは学問の本質ではないと思います。
二つのミンゾク学といいながら、二つの違いと協働できるところとを明らかにできないまま終わってしまった今回のシンポジウム、公開研究会はその点では残念でありましたが、それに余りある実りの多い会だったと思います。本当に参加することができてよかったと思っています。関係者の皆さまに感謝いたします。
■ 国際シンポジウム 「民族の交錯—多文化社会に生きる—」
全体として大変興味深く伺いました。勉強にもなりました。とくにハルミ・ベフ先生のお話は、学生時代に古本屋で買った文庫本(『日本—文化人類学的入門』現代教養文庫、社会思想社1977)でお世話になったので、著者の肉声を聞けたのは大変うれしかった。ベフ先生の『日本—文化人類学的入門』は「民俗的概念としての神」の章が圧巻でした。いま読みかえしても興味深く読めました(翻訳が栗田靖之先生だったというのは今回改めてみて初めて認識しました)。
この本からは、日本を外から見るということ、日本語を使わず(あるいは日本的発想ではなく)日本を説明することとはどんなことかを学んだような気がしています(ちゃんと学べているかこころもとないですが)。
ベフ先生には、質問までしてしまいましたが、普段、引っ込み思案の私が質問したのには二つの理由がありました。一つは、上記のようにベフ先生のお話が伺えてうれしかったこと。もう一つは、全京秀先生が先鞭を付けてくださり、最後に「誰も質問しないと、私が質問した意味がありません」と言われたことに応えなくてはと思ったことでした。私が総合研究大学院大学に入学し、国立民族学博物館に通うようになった時、ちょうど全京秀先生も民博にいらしていました。そして、韓国では毎年5月15日は「先生の日」となっていて、日頃お世話になっている先生に感謝するのだということで、全京秀先生の呼びかけで院生と教官との交流会がもたれました。まだ、入学して日が浅かった私にとってこの日をきっかけにさまざまな先生と親しくなることができたのです。そうした恩に報いるためにも質問に立ちました。
全京秀先生の「アシカの島、山羊の島(不正確です。うろ覚えですみません)」、というお話にも共感しました。
パネル報告者みなさまのおひとりおひとりに言及したいのですが、少し長くなりましたので、尹健次先生のお話にだけふれたいとおもいます。
尹健次先生の話は「刺激的」とか「重要な指摘」などとさまざまな方々が取り上げていましたが、わたしは単純に、日本の歴史の中に近代に朝鮮半島から移り住んだ人々のこともきちんと位置づけよ(あるいは記述せよ)と言うことだと演壇でのお話からは理解しました。
しかし、レジメでは「『日本民俗学』とは何か」と問いかけ、民俗学が植民地主義を内包しているとしていますが、それは、私はちがうとおもっています。「『日本民俗学』とは何か」には、私も大いに興味がありますが、「民俗学=植民地主義」も「日本人論」「日本文化論」とおなじように学問とは縁もゆかりもないただの流行でしかないと私は思っています。
ただ、「『共生』は『共に闘う』という意味をもった、反権力の思想」だという点は大いに共感できました。争わずに共に居るだけではなく、何か(権力)に向かって、共に闘うことができてはじめて「共生」といえる、ということだと理解しました。
普段、鹿児島の地でのんびり暮らしている私にとっては、とても刺激的な2日間でした。久しぶりにお目にかかれた方もいらして、楽しく勉強できました。関係者のみな様に感謝申し上げます。
調査(愛知県・長野県)【 奥三河におけるアチック写真・フィルムおよび同人に関する調査 】
日程: 2013年 1月11日(金)~12日(土)
実施地: 奥三河郷土館、津具民俗資料館、津具文化展示センター、田峯観音(以上、愛知県設楽町)、東栄町中設楽個人宅(愛知県東栄町)、大森山諏訪神社(長野県天龍村)、向山雅重民俗資料館(長野県宮田村)
実施者: 羽毛田 智幸
東栄町中設楽では個人宅では「アチック写真」vol.5に掲載の写真について聞書き調査をおこなった。これにより、従来不明としていた花祭りの鬼面の写真(河1-30-5-13)が足込の面であることが判明した。このほか、数点の写真についての情報を得た。
田峯観音、大森山諏訪神社ではそれぞれが写るアチック写真(ア-25-17)、アチックフィルム(三河地方旅行1&2、16:45付近)の撮影場所を確認した。津具民俗資料館、津具文化展示センターでは、奥三河でのアチックミューゼアムの調査に深くかかわった夏目一平の資料を拝見した。写真資料の所在を確認したが、未整理であったために、アチック写真とのかかわりについては今後の再調査を要する結果となった。
向山雅重民俗資料館では施設見学をおこなった。渋沢敬三の資料学・資料観に関して、昭和11年6月21日に向山雅重と渋沢がアチックにて会談しており、昨秋、飯田市美術博物館にて開催された「民俗の宝庫〈三遠南信〉の発見」展ではその際の向山の野帳が展示されていた。当該日には「民具」という言葉に関して渋沢に依るものとの記述があり注目すべき資料である。 (羽毛田 智幸)
写真:中・下段右 筆者撮影