共同研究

5-1.第二次大戦中および占領期の民族学・文化人類学

平成25年度 第1回共同研究会

日程: 2013年 5月 11日(土)
場所: 神奈川大学横浜キャンパス27号館 機構研究室
参加者: 清水、中生、坂野、木名瀬、谷口、三浦、金、泉水

 民族学振興会資料中の「民族研究講座」講義録について速記原稿を翻刻し、国際常民文化研究叢書の一冊として本年度中に出版する予定である。第1回の編集会議では、著作権処理に関する最終的なスケジュールを確認し、翻刻原稿の校正の分担を共同研究者に割り当て、簡潔な脚注を付した最終原稿の形態について相談した。 (泉水 英計)

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— 共同研究者の連携強化に関わる 第9回公開研究会 「台湾における物質文化研究の現状と課題」の参加報告 —

日程:  2013年 3月 16日(土)
開催場所: 神奈川大学横浜キャンパス
参加者: 金広植

~台湾における民俗研究の現状を聴講して~

  3月16日、国際常民文化研究機構の第9回公開研究会に参加した。
  台湾の博物館および文化資源研究者の王嵩山氏と黄貞燕氏から近代以来、近年における動向を聞くことができて大変刺戟となった。
  王氏は、近代以降の台湾原住民の物質文化研究を概観し、長年経験した研究の成果を聞くことができたが、通訳を通した限られた時間であったこともあり、後半部は簡略になったが、今後の論文などで補充して頂ければと願う。
  黄貞燕氏は、台湾民俗系博物館の現状と問題について報告し、関連写真を見せながらの発表であり、参考になった。勉強になったのは、質疑応答の時間であった。現在の台湾には民俗学関連学科や学会がないというが、今後盛んな研究を願っている。 (金 広植)

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公開研究会「台湾における物質文化研究の現状と課題」 (終了報告)

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調査(滋賀) 【 昭和天皇・大嘗祭における悠記斎田の歴史の資源化について:滋賀県野洲市三上・御田植祭をめぐって 】

日程: 2013年3月1日~3日
実施地: 滋賀県野洲市三上・野洲図書館・滋賀県立図書館 他
実施者: 重信幸彦

  昭和3年に、昭和天皇の大嘗祭が行われ、その儀式で使用する米を栽培する田が、悠紀斎田と主基斎田である。両者は、卜占により選ばれるとされるが、昭和3年の悠紀斎田は滋賀県野洲、主基斎田は福岡県旧早良郡脇山であった。
  近代における大嘗祭の悠紀斎田、主基斎田の儀式は、天皇の践祚に関して定めた登極令(1909)以降、大正大礼を経て昭和大礼へと、同令に定められた抜穂の儀を中心に、斎田に選ばれたそれぞれの地域の裁量のもと、水口祭、御田植祭等細かな儀礼の過程が創出されていったという(高木博志「大嘗祭斎田抜穂の儀の歴史的変遷」『日本史研究』372号 1993→『近代天皇制の文化史的研究』1997)。悠紀・主基斎田は、「地域を媒介とした国民統合」の仕組みの一つであったという(前掲高木)。

  本調査研究は、その後、この儀礼と出来事が、それぞれの地域においてどのように記憶され、また資源化されていったかを、地域の文脈のなかで明らかにすることを目的としている。すでに報告者は昭和大礼において主基斎田を担った福岡県福岡市脇山で調査を進めており、今回の調査は、もう一方の悠紀斎田を担った滋賀県野洲市における、その基礎調査にあたる。3月1日から3日にかけて、野洲市三上の御神神社、同神社に隣接する悠紀斎田跡の見学、三上地区での聞き取り、ならびに野洲市図書館、滋賀県立図書館で文献調査を実施した。以下今後の調査研究への問題の登録も含め、覚書を記しておきたい。

  福岡県脇山では、その跡地を公園化するとともに、昭和3年に創出され主基斎田で行われた御田植え舞を、14年前から復活して、婦人会の文化部を中心に地域の行事等で積極的に上演し脇山の芸能として位置づけていこうとしている。そして毎年六月には、脇山小学校の学校田で婦人会文化部と脇山小学校の生徒により、御田植祭が行われている。こうした行事としての復元にあたって、同地区の現自治協議会長Y氏がキーパーソンとなり、記録の掘り起こしや、御田植歌・御田植舞の伝承者の発掘などが行われた。そして大嘗祭に関わる神事であったものが、改めて地域の芸能として再構築されることになった。しかし脇山では、昭和3年以後、主基斎田を記念するために建設されたと考えられる主基斎田記念館の記憶等が全くといっていいほど残存していないなど、記憶の断絶がある。

  一方、今回、調査した野洲市の悠紀斎田では、昭和大礼の翌年、昭和4年以降も、斎田跡の田で御田植祭を継続し、昭和8年には記念の組織・昭和大礼大祭悠紀地方記念会を結成している。そして御田植祭は、今日まで、戦時中から敗戦直後(昭和16年から昭和21年)も途切れることなく実施されている(ただし、実施する日の変更がなされている)。
  そして昭和戦前期は、滋賀県知事を会長とする昭和大礼大祭悠紀地方記念会(昭和11年に農林省により財団法人認可)が運営し、昭和23年に野洲郡町村会が運営へとうつった。その後、運営主体は、野洲町、野洲町産業課、商工課観光担当とうつり、現在は野洲市の観光物産協会になっている。こうした運営主体の変遷に、昭和大礼の顕彰・記念という文脈から、「観光」という文脈への移行が刻まれていることがうかがえるだろう。

  現在、斎田跡の田を維持し、御田植祭を実施しているのは、「昭和大礼悠紀斎田お田植おどり保存会」である。同会は、昭和50(1975)年5月、栗東町で行われた全国植樹祭に天皇皇后が行幸を行った際、あわせてこの悠紀斎田跡で行われた御田植祭を天覧したことを契機に、昭和52年に結成され現在にいたっている。同保存会は、三上を中心に、昭和悠紀斎田に関わった、妙光寺、北桜、南桜の四地区の人びとを中心に、基本的に有志により構成されているという。
  三上の悠紀斎田近くに住まうT氏(昭和10年生)の妻も、この保存会に一時加わり、御田植祭に参加していた。野洲市の他地区からこの地に婚入し、婦人会に入った際にそこで知り合った友人に誘われて保存会に加入したという。
  三上には、国指定の重要無形民俗文化財である「三上のずいき祭」があるが、御田植祭は、そうした地域に根ざした祭祀組織の論理とは全く別に、この保存会に参加する有志により運営されている。
悠紀・主基の斎田では、抜穂の儀礼が重要な意味を持っていたと考えられるが、それぞれの地域で継承・保存の対象となったのは、ある華やかさをともなう御田植祭とそれにともなう歌舞であったことに注目しておきたい。

  野洲市の悠紀斎田については、昭和5年に滋賀県が発行した『昭和大禮悠紀斎田記録 上・下』(以下『記録』)があり、そして昭和55年に、全く同名の上下二巻本が間宮文一郎により発行されている。
  この戦後に発行された『昭和大禮悠紀斎田記録 上・下』(以下昭和55年『記録』)は、まず上巻には、昭和3年の『記録』の写真製版による全復刻を含み、当時の新聞記事の切り抜きの写し、参拝者の芳名帖の写し、当時発行された記念絵葉書などが、原則として時系列で編まれている。また下巻には、昭和4年以降、昭和54年までの御田植祭実施に関係する文書(奉耕者推薦依頼、奉耕者調書、会計報告など)、そして昭和大礼大祭悠紀地方記念会に関連する文書などが写真製版により、やはり時系列を原則として編まれている。
  昭和55年『記録』の上巻冒頭にかかげられた御神神社宮司や当時の野洲町長による「発刊の辞」によれば、間宮文一郎は、昭和3年、二十歳の時に悠紀斎田で奉耕者をつとめ、昭和22年からお田植の歌舞の指導に従事し、それとともに、斎田の記録やそれに使われた器具などを収集する作業にあたったという。
  こうして当時、御田植えに関する資料を発掘するとともに、そうして集めた文書等を、できるだけ時系列で網羅的に整理して「記録」としてまとめるという作業は、ある意味での郷土史の実践に近いものであるということができるだろう。
  御田植祭を継続してきた地域の意志とともに、こうした在野の郷土史的な知の実践が、そこにあることは、福岡・脇山におけるY氏と重なるものがあり、注目したい。

  今後、より詳細な調査を深め、近代天皇制のなかで創出された儀礼が、当時どのように地域を巻き込み、そしてその後、それがどのように地域的な文脈のなかに回収され、意味づけを変えられていったのか、また変えられていかなかったのか、滋賀県野洲の悠紀斎田と福岡県脇山の主基斎田を対象にして比較検討しながら明らかにしたい。そこから、近代天皇制と「創られた伝統」という視点だけでは見えてこない、地域に根ざす一つの歴史の記憶化と資源化をめぐる実践を見据えていくことが可能になると考えている。

(付記) なお、今回の調査を計画する上で、琵琶湖博物館館長・篠原徹先生にご教示を賜りました。そして調査の過程で、資料の閲覧に関して御神神社にお世話になるとともに、野洲市歴史民俗博物館の学芸員・行俊勉先生には、御田植え祭の現状に関する貴重な情報と、未見の文献資料についてご教示をいただきました。記して感謝します。
  しかしこの報告・覚書に事実誤認等がある場合は、全て調査にあたった重信幸彦の責任である。 (重信幸彦)

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調査(福岡) 【 九州大学と在野の研究者のネットワーク : 長沼賢海と橋詰武生と都久志刊行会 】

日程: 2013年2月20日~23日
場所: 福岡市総合図書館(郷土室)他
実施者: 重信幸彦

   本調査は、1925年より、初代・九州帝国大学国史学科教授をつとめた長沼賢海(文化史家)が、九州地域の在野の研究者達とどのような交わりを持ち、研究活動を展開していたか、北部九州の在野の研究団体の機関誌などを通して探ることを目的としている。

  21日、22日両日、午前中から終日、福岡市総合図書館郷土室を中心に調査をした。前回の2012年12月の調査では、福岡を中心とした北部九州の代表的な在野の史学団体である筑紫史談会には、長沼賢海は、全く関与した形跡がみられなかったのに対して、橋詰武生を中心に、昭和6年から活動を開始した「都久志刊行会」については、その顧問十四人のなかに、九州帝国大学国史第二教室の教授である竹岡勝也とともに、名前を連ねていた。

  今回は、結果的に、この「都久志刊行会」とその中心人物である橋詰武生について調べることに時間を費やすことになった。以下、調査報告を兼ねて覚書を記しておく。
  同会は、昭和6年7月に雑誌『都久志』の刊行を開始し、昭和7年に同誌5号の発行をもって、活動を停止している。長沼と竹岡は、5号まで、顧問として名前が掲載されている。同会の活動停止理由は、今回の調査では明らかにできなかった。
  同会は、入手が困難な「郷土文献」を刊行することを計画として掲げていた。青柳種信『筑前続風土記拾遺』、伊藤常足『太宰管内志』、櫛田神社蔵『博多津要録』、津田元貫『石城志』など、十八件の候補のリストが雑誌『都久志』にたびたび掲載されている。しかし確認できるのは、『郷土史料写真集』(奥付無し)と、『太宰管内志』(1932)のみである。この『太宰管内志』は、結局販売に苦慮し売れ残ったと橋詰がいっていたという(井上忠「跋」(橋詰武生『明治の博多記』1971))。
  こうした都久志刊行会の活動に、長沼、竹岡などが具体的にどのように関わったかは、まだ十分に知ることはできていない。ただ、『都久志』第2号「同人語」には、「長沼九大教授は、目下筥崎宮の元寇六百五十年記念祭三大事業の一つである元寇史の編纂中であって、同教授の研究による新史料が公表されるはずである」とあり、情報の交換がある程度行われていたことがうかがえる。

  この都久志刊行会の中心人物であった橋詰武生は、明治24(1891)年12月に博多對馬小路で生まれ、1910年に東京帝国大学の印度哲学科に進むも、病気で中退し帰郷、以後、福岡・博多の郷土史研究に従事した。 
  1979年11月に満88歳で死去。著書としては以下のものがある。『太宰府小史 第三篇史伝と史話』(1952)、『福岡市酒造組合沿革史』(1957)、「萬台酒造」の小林家に関わり書かれた『小林作五郎伝』(1958)、福岡博多の都市化に多大な功績を残した渡辺与八郎に関する『渡辺与八郎伝』(1976)、そして最晩年に出版された『明治の博多記』(1971)は、博多の郷土総合誌『うわさ』に連載した記事を博多の街場の世相史として編みなおしたものである。
  『福岡地方史談話会』第19号(1980)は、橋詰武生の追悼号であり、橋詰に関するいくつかの重要な情報が記されている。
  本調査との関わりで、以下の二つの情報に着目し記しておきたい。
  ①東京から福岡に帰郷した橋詰は、九州帝国大学の病理学教授であり考古学者でもあった中山平次郎に師事し考古学を学び、九大に考古学教室を新設するさいに、橋詰自身が随分骨をおったという。そしてその功績から毎年中秋の名月の折に、考古学教室の鏡山猛から招待をうけていたという(入江寿紀)。その後橋詰は、文献史学研究にシフトするが、晩年まで発掘現場には足を運び続け関心を抱き続けていたという。橋詰自身は、考古学を通して九州帝国大学と深く関わっていたといえる。
  ②戦後、橋詰武生と、桧垣元吉、片山直義(後、福岡教育大学教授)、井元敏男(現段階で詳細わからず)、ら四人が各自の家をもちまわりで会場にし、史談会を持っていたという(片山直義)。
  四人のうちの桧垣元吉は、昭和10年に九州帝大国史教室を卒業。昭和18年に長沼が退官したのち、昭和21年に復員してきた桧垣が講師として着任し、教授不在の教室運営を担った。橋詰らと史談会を持っていた時期は、九州大学国史学教室に勤務していた時期ではないか、と推測される。中世文化史を専攻するとともに九州諸藩の藩政史研究に業績がある。桧垣はその後、教養部の担当になる一方で国史学教室の演習などを担当し続けていたという(『九州大学五十年史 学術史下巻』(1967)。
  こうして、桧垣が、橋詰らと私的な史談会を結成していたことは、在野の研究者のネットワークとローカルなアカデミーの拠点としての旧帝国大学の研究者との関わりを考える本調査研究にとって興味深い事実であるといえる。
  橋詰は、都久志刊行会が活動を止めて十年以上たったのちも、自宅に、「都久志文庫」の表示板をかかげていたという(片山直義)。

  こうした橋詰武生を、考古学や歴史学、民俗学を横断する在野の知のネットワークと、ローカルな大学アカデミーの人材の結節点にあたるような役割を果たした人物の一人として見ていくことが可能なのではないか、と思われる。

  今回はまた、21日に福岡市博物館顧問の田坂大藏先生に、長沼賢海ならびに九州大学九州文化研究所について、お話をうかがい、今後の調査研究について大変に有益なご教示を得た。記して感謝します。  (重信幸彦)

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調査(福岡) 【 長沼賢海と北部九州の在野研究者との「つながり」について 】

日程: 2012年12月22日~23日
場所: 福岡市総合図書館(郷土室)
実施者: 重信幸彦

 去る2012年12月22日・23日、福岡市総合図書館において、昭和初期に九州帝国大学国史学講座の主任教授を務めていた長沼賢海と、北部九州の在野の研究者たちとの関わりにかんする研究の予備調査を実施した。本調査研究には、帝国大学という場と、在野の研究者たちとが互いにどのように関わりあっていたかを明らかにし、在野と大学アカデミーという単純な二項対立としてとらえられない、ローカルな学の実践の動態を問う学史的意義があると考えている。同様の視点による研究としては、既に菊地暁氏による京都帝国大学を舞台とした研究の蓄積があり、本調査研究も数々の菊地氏の仕事に触発されている。

 長沼賢海は、大正14年12月に広島高等師範学校教授から九州帝国大学法文学部国史学第一講座の初代教授に着任し、大正15年4月から講義を開始している。そして、昭和18年6月に定年退官を迎えるまで、その任にあった。長沼は、仏教史研究、キリシタン史研究や福神信仰研究などの宗教史研究、そして海上交通史研究に顕著な足跡を残し、それらの研究は民ゾク学とも決して無縁ではない。また長沼の九州帝大在職中には、昭和6年から10年にかけて、長沼のもとで民俗学者・桜田勝徳が九州の漁村の調査研究に従事し、漁村の文書を蒐集している。

 今回の調査では、昭和初期に福岡地方で発行されていた郷土研究団体の雑誌を対象に、長沼による執筆の有無などを確認した。長沼の執筆目録による確認だけでなく、直接雑誌にあたることにより、長沼が執筆した評論、会員としての団体への参加の有無、長沼の著書の紹介批評などの記事を幅広く確認し、郷土研究団体の活動のなかに残された長沼賢海の痕跡をできるだけ細かく拾っていくことを心がけた。

 福岡地方の郷土史研究の中心的団体の一つに筑紫史談会がある。しかし、同会が発行している『筑紫史談』の大正末期から昭和前期の巻に掲載された評論等の執筆者のなかに長沼の名前は一切見つけることができない。また同誌第81巻(昭和17年5月)に掲載された「筑紫史談会員住所氏名録」にも、長沼の名前はない。長沼と筑紫史談会との関係が見られないこと自体が、発見であった。その理由については今後の調査の課題としたい。

 その一方で、昭和6年7月に創刊された都久志刊行会の機関誌『都久志』には、長沼の名前を見ることができる。同誌はもともと、橋詰武生、林大壽、筑紫頼貞らが北部九州に関わる史料の翻刻・校訂の出版を目論んで結成した団体の機関誌であった。
 同誌第3号に掲載された「都久志刊行会顧問」十四名のなかに、長沼の名前がある。そこには九州帝国大学の国史第二講座教授・竹岡勝也の名前もあり、第一講座の長沼と第二講座の竹岡という九州帝大国史学講座の二人の教授が名前を連ねていることになる。この他十四名のなかには、東京帝国大学教授・辻善之助、北部九州の多くの地域史誌の編纂を手がけた伊東尾四郎、福岡市史編纂主任を務めていた永島芳郎、筑紫史談会幹事長・武谷水城らの名前がある。この武谷をはじめ、橋詰、伊東などは筑紫史談会にも関わっており、同会と筑紫史談会との関係など、詳細は今後の調査で検討したい。

 そして長沼は『都久志』創刊号(昭和6年7月)に、「九州の文化と博多」を寄稿している。そこで長沼は、大陸との海上交通史を踏まえ、中世の博多が宗教ならびに文化の発信地として如何に栄えていたかを述べ、郷土史研究の意義に触れている。そして「日本の文化が次第に画一的になるのは欣ぶべき傾向ではない」とし、「我が九州帝国大学は福岡にあって全九州の学問界の中心となり、京都、東京、仙台、広島に於けるが如き文化とは一種違った九州は九州としての特種の文化を作り上げることを以て我が九州帝国大学の使命の一つと思つてをる」とローカルな学の実践における大学の役割を位置づけている。最後は「今又同学の諸君が此の郷土研究の使命を以て本誌の刊行を思い立たれた。其の将来の大いなる発展を願ふてやまない」と結んでいる。
 この長沼の物言いは、ローカルな在野の学の実践と、その地域の大学の連携を少なからず意識したものとして読むこともできるだろう。

 今後、今年度内の調査により、具体的にどのような人的交流、情報の共有などがなされたのか、『都久志』周辺はもちろん、さらに北部九州の他の郷土研究団体の機関誌、そして九州帝国大学国史学講座の刊行物などの調査をすすめる予定である。

 なお、今回の調査にあたっては、九州大学大学院教授・松本常彦氏に貴重なご教示を賜った。記して感謝します。  (重信 幸彦)

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