共同研究

5-1.第二次大戦中および占領期の民族学・文化人類学

— 共同研究者の連携強化に関わる第5回国際シンポジウムの参加報告 —

日程:2014年3月9日(日)
場所:神奈川大学 横浜キャンバス
参加者:金広植

第5回国際シンポジウム「渋沢敬三の資料学-日常史の構築-」に参加した。
ヨーロッパから東アジアにわたる民具、美術品、お札、音楽資料をめぐる近年の動向が理解でき、大変有益だった。
ヨーゼフ・クライナー教授は、室町後期から現在にいたるヨーロッパにおける日本関係コレクションをテーマとした基調講演であり、美術・工芸から民具へ関心が、渋沢の先見性につながることを指摘し、刺激的であった。
 以降のパネル報告は、曹幸穂(中国農業博物館 農業史研究所)前所長が伝統的農具から農民史の変貌を分かり易くまとめ、ジョセフ・キブルツ (フランス国立科学研究センター)氏が、信州でのフィールドワークに基づき、日本のお札の世界がヨーロッパとも類似していることを紹介し、興味深かった。続いて、宮本端夫 (宮本記念財団)氏は、「映像に見る常民生活の伝統と再生」をテーマに、福岡正太 (国立民族学博物館)氏は、「音盤に聴く東アジアの音楽交流 - 日本コロンビア外地録音資料を例に -」朝鮮、台湾、上海の音盤の相互交流・影響を、映像と音響を交えて報告し、資料学の豊かさを実感できた。
 崔順権 (韓国国立民俗博物館)学芸官は、数年間持続的に調査した「全羅南道長輿郡上金マウルの事例を中心に、今日の農村生活文化・民具調査を報告して、大きな関心を集めた。8ヶ月間長期調査後も続けて月1回以上の調査を進めて、農村の変化と動きを捉え、最新の動きがわかって非常に参考になった。
 五人のパネラーによる農具、お札、映像、音盤、生活誌からの報告は、渋沢の資料学の可能性を、それぞれの領域で実践・報告しており、有意義なシンポジウムであり、今後のさらなる交流の必要性を実感した。

進捗状況および成果報告一覧はこちら

— 共同研究者の連携強化に関わる第5回国際シンポジウムの参加報告 —

日程:2014年3月9日(日)
場所:神奈川大学 横浜キャンバス
参加者:清水昭俊(神奈川大学 日本常民文化研究所 客員研究員)
  物の喚起力、物を見る目:シンポジウム「渋沢敬三の資料学」から得たもの
 今回のシンポジウム「渋沢敬三の資料学」の中心テーマは、渋沢が人々の日常生活を理解する手掛かりとした「資料」であり、6人の講師がそれぞれに考察した具体的「資料」は、ヨーロッパにおける日本コレクション、中国の農具、日本とヨーロッパのお札(ふだ)、アチック・ミュージアムの物質文化研究、戦前戦時期のアナログレコード原盤、そして韓国農村の民俗資料調査と、多彩だった。全体としてのまとまりが見えにくいというコメントと、それでも神奈川大学だから可能になったという皮肉なコメントとが交錯した。私の感想は(皮肉でなしに)後者に近く、今回のシンポジウムは、一つの枠組みには収斂しない(むしろ、しえない)多様なテーマの緩やかな組み合わせが、聴くものにさまざまの思考を誘って有益だった。
(理論的枠組みの内と外)
 一貫した論理でシンポジウムを組織すれば、シンポジウムの発するメッセージは明快になる。その半面で、その明快なメッセージにそぐわない論点を削いでしまう恐れがある。曹幸穂さんの発表「伝統的農具にみる中国農民史」では、同じようなメリットとデメリットが感じられた。曹さんは中国における農具の歴史を、古典的な唯物史観(曹さんはこの理論に言及されなかったが)の枠組みで整理した。かいつまんで要約すれば、木の棒を掘り棒にして農耕を始め、木の棒に石刃をつけて鎌や鍬を作り、家畜に引かせる犂を工夫し、風車水車などで自然エネルギーを利用し、大規模な水利工事を導入した。この一連の「農具(農耕技術)の改良」が「社会の文明進歩」を促した。
 この進歩史観は、中国の中原など古代文明の発祥の地とされる地域によく当てはまる。しかし同時に、それに該当しない事例も思い浮かぶ。曹さんは、人類史の初期、農耕以前には、人々は定住せず、食糧獲得が不安定だったという。しかし、考古学と民族学(文化人類学)の知見によれば、採集狩猟という生業形態が直ちに不安定な「貧困」を意味したのではなく、また非定住の移動生活を強いるものでもなかった。アイヌ民族や、贈与競争ポトラッチで知られる北米北西海岸の諸民族は、漁撈・漁猟の比重の高い生業形態によって、定住で豊かな文化を築いていた。
 また、曹さんは家畜の飼育を、「五穀、六畜」の成句のように農業の副次的要素と見なして、単独の生業形態としての牧畜は考察しなかった。牧畜は、乾燥地や高地の環境、つまり農耕に適さない環境への適応を可能にした技術体系であり、人類が生息域(オイクメネ)を拡大することに貢献した。中国でいえば、領土の過半を占める内モンゴル・ウィグルの草原地帯とチベット高原の歴史的生業は、それに該当する。想像をたくましくして、初期の人類が農耕の生業形態しか発達させなかったと仮定すれば、副次的に家畜の飼育を伴ったとしても、人類は地表の内の農耕適地に閉じ込められ、その限られた適地を拡大しようとして、温帯の森林(欧亜の大陸ではすでに大半を破壊した)と熱帯雨林(現に破壊しつつある)を失っただろう。
 曹さんは、古典から「神農の世になると、耕して食し、織って衣にし、互いに害する心のあることはなかった。これ至徳の隆(さかん)なり」(荘子)などの文章を引いて、基礎的な農耕技術が民間伝承で「神格化」されていることを指摘した。私には、曹さんの農具理論は、漢族の神話を受け継いだ農業(農耕)中心主義のように思えた。
(外部の目、内部の目)
 6人の講師が取り上げたテーマは多彩だったが、私には一つの共通項で括ることができるように思われた。発表はいずれも、内部の目とは対比的な外部の目で対象を捉えようとする。発表が多彩なのは、異なる外部の目が対象に見出した多彩さである。その上で、私には内部の目と外部の目との差異と対比が興味深かった。
 クライナーさんの基調講演「ヨーロッパにおける日本関係コレクション」は、ヨーロッパ(さらに後にアメリカ)が日本の美術工芸品(さらに後に民具)を受容した歴史を概観し、王侯貴族の珍重品から体系的コレクションへと推移した過程を紹介する。中でも、江戸末期にシーボルト、明治初めにモースがそれぞれ精力的に収集して持ち帰ったコレクションは、さながら同時代の日本の全体の姿を物の面で切り取ったタイムカプセルであり、それゆえ、例えばモース・コレクションには木製の入れ歯があったように、その後の日本人には継承されず、忘れ去られてしまった品も含んでいたという。
 シンポジウムの後でクライナーさんに、シーボルトやモースと同じ時期に、彼らのコレクションと同じように体系的で包括的な収集が、ヨーロッパの村や地域などを対象に行われていたかどうか、お尋ねした。クライナーさんは「足元でね・・・」とつぶやきつつ暫く考えて、そのようなコレクションは思い当たらないとおっしゃった。短時間の立ち話で、クライナーさんとそれ以上この話題を深めることはできなかったが、私なりに推論すれば、当時の欧米の知識人は、百科全書派に由来する科学的な観察の目を形成はしても、それを「足元」のヨーロッパに向けるには、対象があまりに身近すぎたのである。
(異なる名称、異なる価値)
 シンポジウムでは、生活に使われる物にさまざまの名称が当てられていた。「資料、非文字資料、民俗資料、文化財、民具」など。同一物に与えられたこれら異なる名称は、その名称を使う人が物に向かう姿勢と、その物に与える意味とを反映する。シンポジウムでの諸発表から私の得た理解では、同一物に与えられた名称ではあっても、異なる名称は対象物を互いに異なる別物へと変換する。研究者の視野に入る「民俗資料」、博物館の「収蔵品」は、もはや生活の中で使われていた物(仮に「生活財」と呼びたい)ではない。この異なる名称による変換は、同時にその物の価値と意味をも変換する。研究のための「資料」や展示する「民具」の意味と価値は、生活財が生活の中で帯びた価値と意味とは全く異なる (*)。同様にして、同一物であっても、複数の外部の目が異なる名称を与えるならば、それに付随して、異なる名称は異なる意味と価値とを伴う。
(*) 余談ながら、この価値と意味の差異を示す一例として、先住民文化にアプローチするもの、とりわけ「人類学者」が、先住民からしばしば受けた非難、彼らの貴重な「文化財」を「人類学者」が「奪った」という非難を考えてみたい。実際に「奪い、騙す」に等しい手法で先住民の「文化財」を収集した研究者もあっただろうし、「原始美術品」のコレクターには悪評高い例が少なくない。しかし、「人類学者」やコレクターが人々の同意を得て彼らの生活財を収集した場合であっても、その収集品は「人類学者」の研究の文脈では、先住民文化を表す「民俗資料、文化財」としての価値を帯び、博物館や美術館に収められれば「展示品」や「美術品」としての価値を帯びる。生活の中での価値(極端な例でいえば、用済みになって「捨てる」もの)と、研究者や博物館、コレクターにとっての(民俗資料、文化財、展示品、美術品などとしての)価値との間には大きな落差があり、先住民はそこに的を絞って、「高価」なものを「タダ同然に奪った(持ち去った)」と非難する例も多かったと思われる。先住民がこの非難を発するには、彼らの生活とは離れた外部の世界について理解し、そこでは彼らの生活財が「文化財、美術品」などとして高い価値を帯びることを認識する必要がある。先住民の発する非難が、「人類学者」は自分たちから「文化財、美術品」を「奪った」と過去形で表現するのは、この非難を発するのが、彼らが外部世界を理解した後になるからだ。他方で、この価値と意味の落差は研究者(あるいはコレクター)に倫理的課題を負わせる。それについては次に言及しよう。
 本題のシンポジウムに戻れば、崔順権さんの発表「農村の生活文化調査と持続的な記録の必要性」は、崔さんが韓国民俗学博物館で担当している調査の方法を紹介する。伝統的な民俗を比較的よく残している村を、各道から2村ずつ選び、それぞれについて長期の実地調査を行って、村人の生活を網羅的に調べる。さらに一軒の家族を選んで、家屋にある全ての物を記録化する。冷蔵庫の中の生ものから家族の下着まで、全てのものを漏れなく資料に登録するという。さらに毎年と10年間隔の長期に亙って追跡調査を予定する。どの面から見ても「全て」を網羅する徹底した調査姿勢が印象的だった。
 このように「全て」に徹底する調査は、村人の生活への介入が広汎で深いだけに、村人の理解と同意、協力を得る努力を、慎重に丁寧に行っているという。
 その崔さんが「遺物を収集する博物館」という表現を用いていたので、珍しい語法と思い、シンポジウムの後、たまたま居合わせた金広植さんに通訳してもらって、この表現についてお尋ねした。崔さんの答えでは、韓国の博物館では、考古発掘品を収蔵した頃からの伝統で、収集品を「遺物」と呼び慣わしており、民俗学の調査で収集した物も「遺物」と呼ぶ。民俗学は伝統的な品物を収集するからでもあるといった説明だった。特定の家族を対象に生活財の悉皆調査を行っても、それら生活財の収集は急がず、長期の視野で収集を計画しているということのようだ。当の家族が生活で用いている品物は、「収蔵庫の外にある」つまり収集予定の「民俗資料」であり、家族が「今後使う予定のない物は博物館に寄贈するという約束も受けた」。それゆえ、調査で行った全生活財の記録化は、いずれは博物館が収蔵することになる「民俗資料に対する明細書をあらかじめ作成」する作業でもある。
 特定の村と家族を対象とした包括的な実地調査は、このような調査法の常として、現地の人々の見方と認識を詳細に記録するだろう。先に述べた二つの目の内の内部の目である。しかし、韓国民俗学博物館は博物館という外部の目によって、対象の村と家族について、この内部の目を含むより包括的な民俗資料を獲得する。博物館は韓国全体の視野で各道からサンプル村を選び、同じ手法で調査を重ねているので、博物館は研究計画に比較研究も含めているだろう。しかし、その上に積み重ねる長期の視野での追跡調査は、特定のテーマを想定しての計画ではないようだ。私の受けた印象では、今後も積み上がっていく資料が将来に帯びるであろう価値を、不確定のまま開かれた形で想定した上で、今後の追跡調査を予定しているようだ。ここでも、博物館の視線は(将来の時点で振り返るという意味での)「過去」の「遺物」から民俗学的価値を読み取ることに向いている。
 韓国民俗学博物館は、生活財が人々の生活の中で価値を失い、捨てられる時点に、博物館が「遺物」として収集する時を設定する。それ以前の生活の中にある時点でも、生活財は民俗学的な価値を帯びる。その民俗学的な価値は「参与観察」の実地調査で探究する。当事者が現に生活に使っている用具類を、博物館や研究者が収集しようとすれば、総合討論でクライナーさんが述べたように、当事者に生活の不便を強要することになってしまう。韓国民俗学博物館の「遺物」収集方針では、物の帯びる二つの価値(生活財としての価値、民俗資料としての価値)が同時に重複することはないので、物の価値の切り替えが鮮やかに可視化される。韓国民俗学博物館のこのような「遺物」収集方針を納得できて、私には感銘深かった。
(渋沢の「民具」、国家の「民俗文化財」、ユネスコ「世界遺産」)
 今回のシンポジウムは「渋沢敬三の・・・」を標題としていたが、直接に渋沢を考察する発表はなかった。渋沢に一番近かったのは宮本瑞夫さんの発表「映像に見る常民生活の伝統と再生」である。渋沢の組織したアチック・ミュージアムに参加した宮本勢助(宮本瑞夫さんの祖父)と馨太郎(同じく父)の民具研究と映像作品を回顧しつつ、渋沢を交えた「民具、民俗品」研究の体系的理論化の試みと、そこで逢着した困難とを紹介した。
 後に渋沢と宮本馨太郎は、長谷部言人、柳田國男、折口信夫、岡正雄、金田一京助、今和次郎などとともに文化庁の文化財保護政策の諮問に参与したという。宮本さんの配布資料によれば、文化庁の「重要有形民俗文化財指定基準」は「一、次に掲げる[各種の]有形の民俗文化財のうち、・・・わが国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので、典型的なもの」と規定した。それに続いて、「三、他民族に係る・・・有形の民俗文化財・・・で、わが国民の生活文化との関連上特に重要なもの」とあるので、文化庁の視野が「わが国民」に限られていたわけではない。しかし、民族や国家内外の政治的境界にとらわれずに比較研究の視野を拡げ、人々の生活の連続的な差異を大切にした渋沢と宮本馨太郎にとって、「わが国民の・・・特色を示すもので、典型的なもの」といった国家的な意識による強調と選別は、異質な発想だったろう。
 宮本さんによれば、アチック・ミュージアムは「民具、民俗品」の体系的分類を試み、「足半(あしなか)、蓑(みの)」など、対象を絞り込んだ特定のジャンルについては、かなりの所まで進展したが、どの試みも完成の域までには達しなかったという。用途、形状、素材、製作方法など、いくつもの構成要素をどのように組み合わせても、整合的な分類体系を構成しえなかったということらしい。
 しかし、私にとって重要に思えたのは、体系的分類の試みの成否よりもむしろ、そのような試みにいどんだ渋沢たちの思考である。渋沢たちが体系的分類に取り組んだ背後には、ジャンル全体とその中の個物について、明確な認識があったに違いない。特定の地点で収集される民俗品は、一つのジャンル(たとえば「足半」)の分類体系の中に位置づけられる個性的な事例であり、他の事例とは、分類体系の中での位置こそ違っても、一つの分類体系に参与する事例として同等である。この分類体系の論理には、特定の事例を選別して、全体を代表すべき「特色、典型」などとして特権化する意識は、入り込む余地がない。
 文化庁の指定する「民俗文化財」は、アチック・ミュージアムが研究対象にした「民具、民俗品」ではない。異なる外部の目が見出し、異なる名称を与えた物は、互いに異なる別物なのである。この差異を延長していえば、もう一つの外部の目ユネスコが指定し、加盟国が登録を競う「世界無形文化遺産」は、「世界」と名づけられてはいても、その制度自体が加盟国個別の国家意識を強化するイデオロギー装置である。国家意識によって選別され「典型」へと純化され、さらにユネスコに認定された国家の「無形(民俗)文化」は、渋沢と宮本馨太郎たちがいとしんだ「常民の民俗」からみれば、遠く懸け離れた異物である。
(国家民族を超える民俗文化の交流)
 世界遺産に思いが至れば、それとの対比で、鳥居龍藏、岡正雄、大林太良、佐々木高明など一系列の民族学者たちが跡づけた文化伝播が連想される。彼らは、渋沢の視野よりさらに広い視野と、人類の先史に溯る時間スケールで、北アジア、東アジア、東南アジア、インド亜大陸、そして太平洋の広大な空間を舞台に、多種多様の文化要素が東西南北縦横に行き来した交流(移動、伝播)の軌跡を探った。この文化交流は、民族の境界を区画しようとしても不可能にするほどに連続的で密度の濃いものだった。この文化伝播は、国家を分ける国境など全く無意味だった先史時代から連綿と展開したグローバリゼイションでもある。この現象の重要な価値は、文化要素のグローバルな伝播に参与する各々の地点の人々が、受容した文化要素に変形を加え、さらに次の地点へと送り出す、その受容地ないし経由地としての創造的参与にある。「常民の民俗」レベルの文化交流は、文字以前の時代に遡る時間を経ていること。民俗レベルの文化交流は、国家意識のみならず、文字に記録された「起源」に特権的な価値を与えようとする歴史意識をも無効にする。
 「和食」の世界遺産登録は、日本人のナショナリズムに応える「快挙」だった。しかし、「なれずし」や「発酵食品文化」、「餅文化」、「茶の文化」、さらに大きく括って「照葉樹林文化」、あるいは「異人まれびとの民俗」、「シャーマニズム民俗」が、多国籍のままに世界遺産に登録されるとしたら、どれだけ大きな国際的インパクトを与えるだろうか。それは同時に、ユネスコ「世界遺産」制度の奨励する狭隘な国家主義に対して、強力な批判になるだろう。民族学・民俗学の見果てぬ夢かもしれないが、想像するだけでも楽しい。
(物の喚起力)
 様々の外部の目に対比される内部の目は、上にも記したように、生活を生きる当事者の見方と認識を指す。しかし内部の目は、それに留まっていては、民俗学(および民族学・文化人類学)にとって意味がない。調査者は外部の目を介して内部の目を資料化する。当事者が内部の目を外部に向けて語るとしても、そのためにはいずれかの外部の目を自ら内面化し、その内面化した外部の目で自身をとらえ返す必要がある。討論では、民俗学が当事者の主体性を理解し描き出すことの重要性が指摘された。若干の補足を加えれば、当事者の主体性を把握し理解するには、やはり外部の目の媒介が必要である。
 しかし、ある地域の人々の民俗を調査し研究する外部者は、その外部者としての目をどこから獲得するのか。ジョセフ・キブルツさんの発表「お札(ふだ)の世界—世界のお札(ふだ)」は、この問いに一つの興味深い回答を与える。キブルツさんによれば、日本では近年までも、家々で、とりわけ農村の家々で、入り口、神棚、仏壇、大黒柱、竈、厠などの処々に、お札を張る習俗がある。お札には元三大師や不動明王、観音菩薩や阿弥陀仏、大黒や恵比須などの絵、あるいは「家内安全」などの語句や、寺社名を表す文字が印刷してある。人々はお札に、危険、不幸、災難の到来を排除し、安全と守護、繁盛をもたらす呪術的な力を期待した。日本のお札の習俗を観察した上で、キブルツさんはその類例をヨーロッパに求める。カトリック信仰の強い地域では、栞に似たサイズの聖像画が多数、印刷発行されていて、人々は洗礼など通過儀礼の際にお祝いとして贈ったり、祈祷書の栞にしたりする。聖像画に込められた願望は日本のお札と同様であり、画像もまた、キリスト、聖母マリア、天使など、日本のお札に描かれる神仏と同様に階梯を成している。
 そして、キブルツさんによれば、多くの特徴で類似する日本のお札とヨーロッパの聖像画の伝統は、日本で出会い、見事に融合した。隠れキリシタンの所持していた聖像画に、十二単を着た女性を描いてあるものがあり、裏紙に細川家の家紋の模様があるので、女性は細川ガラシャと推測されているという。宣教師フロイスは日本人のお札の習俗を観察して、聖像画が布教にとって有用と考え、導入を推進した。
 日本のお札とその西欧における類似物との比較という、いうなれば「地味な」研究発表が、中世の日本におけるキリスト教の布教を介して、二つの民俗伝統の出会いと融合という歴史物語に転化し、さらにガラシャの「殉教」と隠れキリシタンの苦難という悲劇が、喚起力の強い彩を加える。キブルツさんの語りの才に感心するとともに、ガラシャの聖像画がキブルツさんをして語らしめたのではないかとも思われた。
 同じようにして、物がそれを見る人接する人を触発して思考を喚起するという、物の力を感じさせたのは、福岡正太さんの発表「音盤に聴く東アジアの音楽交流」である。日本の音楽レコード企業は、1910年代から第二次大戦の戦時期まで、日本の植民地占領地に向けて音楽レコードを制作販売した。日本コロンビアのレコード原盤が戦災による焼失を免れ、国立民族学博物館が収蔵している。
 福岡さんの発表はこの原盤を素材とした共同研究の中間発表である。「外地」向けレコードには、現地語の歌詞を含めて、市場(台湾、朝鮮、中国)ごとに個性があり、「外地」の各支店にプロデューサーをおいて、レコード制作を企画させたことがうかがえる。それと同時に、「内地、外地」を通じた共通性も読み取れ、当時の東アジアのポピュラー音楽状況を探ることができる。レコード制作に参与した各地の音楽関係者の間に、密接な相互交流があったことが予想され、いずれも今後の研究課題だという。
 福岡さんは、共同研究で協力関係にある台湾と韓国の研究者たちの、原盤の音楽を聴いた時の感激した様子が、福岡さんの予想を超えたもので印象的だったという。彼らの感激は、原盤の音楽と、彼らがそれぞれの人生で経験した音楽と、彼らが育った社会での音楽の積み重ねとが、ないまぜになって彼らの内面に喚起したものであり、直ちには言葉にできないものだったようだ。
(物の持つ未確定で将来に開かれた価値)
 民俗学という、あるいは渋沢敬三の資料学という成熟度の高い分野では、方法と理論の整理が進んでいて、既知の理論的状況が今後さらに追及すべき研究課題を指示してくれる。そのような分野では、資料としての物(あるいは音楽)がそれに接する人に喚起する感情と思考は、専門的研究にとっては原初的にすぎる要素であるのかもしれない。しかし、今回のシンポジウムでは、そのような資料が物として人に与える喚起力が、私には印象的だった。私の民俗学や渋沢の資料学についての知識が、それだけ原初的なレベルに留まっている証左なのかも知れないが、資料の学術的な価値については、資料が物として及ぼす喚起力を未確定のままに将来に残すという、柔軟で開かれた姿勢を保つことが、重要であるとも思われた。最後に、私にとっては喚起力の強い研究成果を示されたシンポジウムの関係者皆さんに感謝したい。
(2014年3月13日)
  

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