共同研究

台湾の「海女(ハイルー)」に関する民族誌的研究—東アジア・環太平洋地域の海女研究構築を目指して—

2018年度春季沖縄調査

日程:2019年3月4日(月)~3月9日(土)
調査先:沖縄県那覇市、南城市、うるま市、うるま市立海の文化資料館
調査者:藤川美代子、兪鳴奇、許焜山

 この共同研究では台湾東北角を対象に、素潜りを主な方法としながら、テングサ科をはじめとする海藻やトコブシ・カサガイ・ヒザラガイといった貝類、さらに棘皮動物のウニを採取する人々の民族誌的研究を進めている。このうち、「石花菜」(マクサ・オニクサ・オバクサの3種を指す台湾での総称。台湾語では石花仔とも呼ばれる)の潜水漁の技術を当地にもたらしたのは、日本統治前の1890年頃より基隆市社寮島(現・和平島)を拠点としていた沖縄からの出稼ぎ漁民たちであったと伝えられていることがこれまでの調査で明らかになった(「『海人』から『海女』へ」を参照)。これを受け今回は、 ①台湾への潜水技術の伝播を考える上でキーパーソンとなる久高島出身の内間長三氏について理解を深めること(南城市久高島)、②沖縄の漁撈技術の歴史について把握すること(うるま市立海の文化資料館)、③沖縄の海藻採取の方法とその利用方法を調査すること(うるま市)を目的として現地調査をおこなうこととした。3月4~7日は藤川美代子・兪鳴奇・許焜山、8~9日は藤川のみによる調査となった。

1)「ヤマゲーさん」

琉球漁民慰霊碑(基隆市和平島)

 内間長三氏は長らく「ヤマゲーさん」と呼ばれて親しまれ、(おそらく70代で)台湾から久高島に帰郷した後も誰一人として彼を本名で呼ぶ人はいなかったという(私たちは、内間氏と遠縁に当たる島民から「基隆あたりでは漁や素潜りが上手い人を『ヤマゲー』と呼ぶと聞いているが、どうだろうか」と尋ねられることになったが、「少なくとも現在の基隆周辺ではそのような言葉は聞かない」と答えることしかできなかった)。内間氏の家族や親戚は、2011年に現在の和平島(かつての社寮島)の海辺に彼をモデルとした「琉球漁民慰霊碑」(琉球漁民石像建立籌備会長:名城政次郎氏)が建立された際、開幕式に招待されたことで彼が基隆一帯の漁業に大きな貢献を果たした人物であることを知ったという。親戚たちは、彼の長男「ケタゴロウさん」(訪問の数日前に他界)もその息子たちも素潜り漁と船での漁の名人であることから、「ヤマゲーさんが社寮島の人たちに素潜り漁を教えたと聞いても、まったく驚かない」と口をそろえた。
 久高島には、ヤマゲーさんの笑い話が今でも語り継がれているという。戦後のある日、久高島のとある岸辺にクジラが一頭打ち上げられた。役所に報告することが義務づけられていたとみえ、ヤマゲーさんが島を代表して本島の知念村(現・南城市知念)役場まで出かけることになった。ところが共通語が流暢ではなかったヤマゲーさんは「クジラ様が岸辺様に上がりました!」と報告し、役場の皆に大笑いされたというものだ。
 今回の調査では、ヤマゲーさんの人柄を示す断片的な逸話や、戦前の久高島は台湾に限らず南洋群島(パラオなど)にも多くの移民を輩出していたこと、その歴史が各家庭の屋号にも刻まれていること(たとえば、「ヒコーキヤー」)などを知ることになったが、反対にケタゴロウさんが亡くなった現在では、ヤマゲーさん自身が基隆に渡ることになった具体的な経緯や理由、基隆での暮らしぶり、久高島への帰郷後の生活といった詳細を知る島民を探すことは至難の業だということが諒解された。
 これらの点については、史資料調査から探っていく必要があるだろう。

2)うるま市立海の文化資料館

  ■ ミーカガン(左中央・うるま市海の文化資料館)   ■ タマウーキ(うるま市海の文化資料館)

  ■ モンパノキ(南城市久高島)   ■ モンパノキの断面(南城市久高島)

 前田一舟氏、越來勇喜氏に館内を案内していただいた。台湾東北角には、潜水漁の技術のみならず、石花菜をはじめとする海藻類の採集に欠かせない「水鏡(ズイギャア=二眼の水中眼鏡)の技術も、琉球人が伝えた」と語り継がれており、19世紀に糸満漁民の玉城保太郎氏によって発明された水中眼鏡を八重山諸島の人々が台湾へもたらしたのだろうことが研究上も明らかにされている(記憶に新しいところでは、2018年8月4日放送のTBS「世界ふしぎ発見!:同時に旅して新発見!ノスタルジック台湾&沖縄八重山諸島」でも石垣島と基隆で用いられるガラス・木製の水中眼鏡が紹介された)。
 沖縄本島中部のうるま市でも、水中の貝・海藻採集に際して、潜水を伴う場合は「ミーカガン」と呼ばれる二眼の水中眼鏡を、船や歩きで水面から水中を覗く場合には「タマウーキ」と呼ばれる箱眼鏡を用いることがわかった。沖縄の場合、ミーカガンはモンパノキ(通称:本島ではハマスーキ、ガンチョーギ、久高島ではマシューキなど)とガラスで作られる(台湾東北角では水鏡を作る職人が絶えたといわれており、誰に尋ねても原料はわからないというばかりである)。
 このほかに、この地域に伝わるサバニやクリブネ、マーラン船の構造や技術を紹介していただいた。

3)うるま市与那城地区の「モーイ」採り

■ 湯がいたモーイ(沖縄市泡瀬)   ■ 先端に金属製の鈎がついた棒(うるま市与那城)  ■ プラスチック製タマウーキ(うるま市与那城)  
■ 木製を模したプラスチック製タマウーキ(うるま市与那城)

■ 採れたモーイを入れる発泡スチロール箱(うるま市与那城・許焜山氏撮影)   ■ 採れたモーイを入れるナイロン製網袋(うるま市与那城・許焜山氏撮影)

  ■ 波打ち際に寄ってきたカーミヌヒジーを採る(うるま市与那城)   ■ タマウーキで水中を覗きながら水中もしくは水底のモーイを採る(うるま市与那城・許焜山氏撮影)

 調査期間中に陰暦1~2月の大潮(3月6~9日が相当)を迎え、ちょうど多くの人が海に入って海藻を採集するというので、参与観察をすることにした。当該地域で「モーイ」と総称される(後述するように、複数の海藻が含まれる)海藻は、キュウリとマヨネーズを和えてサラダにしたり、寒天質を固めて具を混ぜ「モーイドウフ」を作ったりするために重宝され、市場の流通にも乗ることから、与那城地区外から採集に訪れる人も多かった。モーイ採りに来るのは、老若男女問わぬ幅広い層の人たちであり、海沿いの道路には朝から彼らが乗りつけた車でびっしり埋め尽くされるほどだった。その多くは、長袖長ズボンの洋服(一部は、ゴムズボンやゴムエプロンなども)を身につけ、先に鉄の鈎をつけた木や竹の長い棒や、プラスチック製のタマウーキ(かつては木製であったことをうかがわせるかのように、木を模したものもあり興味深い)、発泡スチロール箱、網袋などをもって海を訪れていた。
 モーイ採りの方法は大きく二種類に分けられる。一つは、水際を歩きながら水中でちぎれて浜辺に寄ってきた海藻を手や棒先の鈎で採るもの。もう一つは、水深の深いところまで行き、腰や肩まで海水に浸かりながらタマウーキを使って水中を覗き、水中を漂う、もしくは水底に生える海藻を棒先の鈎に引っかけて採るものである。
 調査期間中に与那城地区で採集が確認できた海藻は、以下のとおりである。

①モーイ
 沖縄本島で「モーイ」と呼ばれるものは、一般にイバラノリ属の海藻を指す。ところが、与那城地区に「モーイ」を採りに来ていた人の多くは、沖縄本島で広く「スーナ」と呼ばれるオゴノリ属の海藻と併せて「モーイ」と総称し、人によっては分別することなく同じ袋・箱に入れることもあった。特にオゴノリ属のモーイは、人によっては「カーミヌヒジー」とも、「テングサ」とも呼ばれており、民俗分類が個々人によって大いに異なることを示していた。

  ■ イバラノリ属のモーイ(うるま市与那城)   ■ オゴノリ属のモーイ(うるま市与那城)

②アーサ
 ヒトエグサ属のうち、若くて柔らかい海藻を指す。引き潮の際に潮溜まりとなるようなところの石に付着することが多い。魚からとった出汁や豆腐とともにみそ汁や吸い物に入れて食すことも多い。
③ビル
 ミル科の海藻。ほとんどの人は食用にすることはないというが、一部の人は湯がいた後、ポン酢で和えて食べるという。
 沖縄本島の海藻の植生は、一部台湾東北角と似る点もあるが、中国大陸側から寒流の影響を受ける台湾東北角ではテングサ科の海藻が生えるが沖縄本島では見られないなど、大きな差異も認められる。さらに、台湾東北角の海は一般的に岩がちであり、沖縄本島でも与那城地区のようなところは砂地が広がるなど、海底の地質も大きく異なっている。これらの自然条件が、沖縄本島と台湾東北角の海藻採集において、水深・方法・道具・装備などの差異を生み出しているものと考えられる。とりわけ、海藻採集において潜水を主たる方法とするか否か、その役割の大部分を女性が担っているか否かという点において、両地域には大きな差異が見られる。そうであるとすれば、「海女の技術は琉球人が台湾東北角にもたらした」という言説がいかに生み出されたのか(=いったい誰が、どのような経緯で海に潜って海藻や貝を採る技術を台湾の女性に伝えたのか)、ますます疑問が深まるばかりである。

  ■ 柔らかいものが「食べられるアーサ」(うるま市与那城)   ■ ビル(うるま市与那城)

(文責:藤川美代子)

2018年度春季沖縄調査

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