2018年度夏季台湾調査
日程:2018年8月16日(木)~9月3日(月)
調査先:台湾台北市、基隆市、新北市
調査者:藤川美代子、齋藤典子、兪鳴奇、許焜山、沈得隆、藍紹芸、王麗香(通訳)
先の予備調査を受け、2018年度夏季は新北市貢寮区澳底に宿泊拠点を置きながら民族誌的なフィールドワークを実施することとした。8月16~19日は先に台湾入りした兪鳴奇が台北市内で資料調査を実施。20日以降は、日本側メンバー(藤川美代子、齋藤典子、兪鳴奇)を中心とした調査に台湾側メンバー(許焜山、沈得隆、藍紹芸)が各自の都合に合わせて加わる形で進めた。調査のために赴いた地域は、新北市貢寮区卯澳・福隆・澳底・龍洞・鼻頭角・基隆市中正区八斗子・和平島に及んだ。今回は初の長期調査ということもあり、テーマを絞ることなく基礎的な状況を把握することに努めたが、それが結果的に「海村の生活全体を民族誌的に描きながら、「海女」と呼ばれる人々を理解する」ことを目指す本研究班にとって、重要ないくつもの気づきを与えてくれた。前回の予備調査に引き続き、今回の調査で改めて得た気づきの一部は、以下のとおりである。今後は以下の点にも目を配りながら調査・研究を進めたいと考える。
1)「海女」とは誰なのか
和平島近海の海洋資源の豊富さを示す看板に登場する「海女」という表現(藤川撮影)
野柳・和平島・八斗子といった地域では、浅瀬を歩きながら海藻類を採る(=台湾語で「騎山挽」)女性が存するが、彼女たちは「私は潜る技術がほとんどないし、専業ではないから『海女(ハイルー)』ではない。本当の海女は龍洞や澳底にいるのだ」という。だが、主に潜水での石花菜(=テングサ)採取・加工・販売で生計を立てている(ように見える)龍洞・澳底の女性たちは、「私は『家庭主婦』だ」、「あえて職業を聞かれたら『去海拿東西(海に行き、ものを採る)』と言うほかない」などと答える。一方、メディアや国立海洋科学博物館の展示、観光PRなどでは台湾北部・東北角の沿海部一帯で海藻・貝類を採取する女性を一括して「海女」と呼んでおり、「海女ではない」と答える当の女性たちも自らが「海女」として紹介された雑誌を誇らしげに見せてくれることすらある。「海女」とは、日常の文脈からは乖離した空間にありながら、茫洋としたイメージを各人の脳裏に浮かび上がらせつつ台湾全土で広く流布する呼称であるといえよう。
すでに新垣が報告しているとおり(「『海人』から『海女』へ」を参照)、「『海女』の技術は、琉球の人が社寮島の人々に伝えたのがはじまり」という言説が台湾北部・東北角に広く流布していることも併せて考えるならば、フォークタームとも学術用語とも判断のつかぬこの奇妙な呼称の正体を解き明かすためには、日本統治以降の台湾の歴史を丹念に紐解いていく必要があるだろう。
2)「海女」のしごと
澳底・龍洞で「海女」と呼ばれる女性たちの多くは、旧暦2月~5月前半(端午節前)までの石花菜採取を主としながら、季節に合わせて他の海藻類や貝類を獲っている。一口に海女といっても、①どこの海域へ誰と出かけ、どれほどの深度で海藻類・貝類を採取するのか、②海藻類・貝類の加工を自らが担うのか、それとも加工には与せず獲れたてをすぐに業者に引き渡すのか、③どの状態の商品(たとえば石花菜は、乾燥状態を袋詰めにしたものや、石花凍(=寒天)・飲料に調理したものが海女の販売する商品として想定され得る)を、どこで誰に販売するのか、④販売相手にいかなる手法で自らの商品を売り込むのかといった事象には実に多くの選択肢があり得、それらを刻々と変化する状況に合わせて個々の女性が生み出す戦略の結果と見なす必要がある。
また、海女たちの多くが「自らは家庭主婦である」と称したり、海藻類・貝類の採取は「補貼家用(家計の足し)にするためだ」と話すことからもわかるように、「海女のしごと」は決して季節性の高い潜水漁や獲得物の加工・販売のみに限定されるものではない。それは、海女をとりまく家族の生業・生活に埋め込まれたものとして存しており、家族が数世代にわたって経てきた歴史や日常生活の全貌把握に努めることで理解可能となるだろう。
3)「よい石花菜」とは何か
■ 岩に張りついて生息する石蓴(=アオサ)などを採取する道具。これを用いることで海藻類が死滅すると主張する海女もいる(藤川撮影)
■ 中元節を前に、家族がしごとする海域を「好兄弟」から守るための儀礼をおこなう(藤川撮影)
今回の調査中、海女の採取物の中心的存在たる石花菜に関わるさまざまなアクターと接するなかで興味深かったのは、自らの提供する石花菜がいかに良質であるかを目の前の相手に伝えるために彼(女)らが実にバラエティに富んだ言葉を口にすることだった。それはしばしば、(同じ通りで露店を並べ、石花菜を販売するお隣さんまでをも含む)他者に対する水面下での「批評」という形式をとって表面化するものであった。たとえば、「あっちの人が売ってる石花菜を見てごらん、大小の石花菜が混在しているし、ゴミもたくさんついている。私の加工した石花菜は白くて、不純物がほとんど混じっていない」といって石花菜の分類技術・加工技術の高さに誇りをもつ海女がいると思えば、その隣の海女は「隣は自分で獲れる石花菜の量が限られてるから、潜水技術の高い〇さんから石花菜を買って、それを加工して売ってるんだよ。その点、うちのは私と台北から手伝いに来てくれる媳婦(=息子の妻)で獲った石花菜を加工して、店先に並べているからね」と、石花菜の採取がいかに信用に足るあたたかな関係性に彩られて実現可能となっているかという点を強調する語りを聞かせてくれるといった調子である。ほかにも、「私の売る石花菜は不揃いで見た目は悪いが、膠質(=寒天質)が高く、固い石花凍ができる」ことを売り文句にする海女もいる。
他方には、そうした海女相互の批評など歯牙にもかけず、「海女の阿嬤(=おばあちゃん)たちが潜る水深には、いい石花菜はない。われわれは泳ぎのうまい原住民(=多くは阿美族)を育成し、ボンベを担いで深い海域に潜ってもらい、良質の石花菜を効率的に採取している。乾燥石花菜の卸しを担ううちにとって、質・量ともに安定性を確保するためには、近隣の阿嬤たちが持ち込む石花菜だけではとても賄いきれないのだ」と語る卸し業者がいる。質・量の高い石花菜を常時販売可能な状態に保つマネージメント能力と、石花菜を使用した飲料・食品のレシピを自ら開発してそれを付加価値として飲食店へ売り込む営業能力の高さでシェアを確保しようと試みるこの業者にとって、「よい石花菜」とはより深い海域に生え、誰にも荒らされていない状態の繊細で美しいものであるということになる。
よい石花菜とは何かをめぐって披露されるさまざまな知識は、それ自体が科学的に確からしいか否かとはまったく別の次元において、石花菜を扱う個々人の譲れぬ価値観や人生観にも関わるような態度を映し出すものとして機能しているようである。
4)海・磯の空間認識と海藻類・貝類の分類・利用法をめぐる民俗知識
本共同研究では、①海・磯のどのような空間にどの海藻類・貝類・魚類が生息しているか(=空間認識)、②水深や採取対象物の種類によってどのような道具をいかに使い分けるのか(=道具・漁撈技術)、③海藻類・貝類・魚類はどのように名づけられているのか(=民俗分類)、④海藻類・貝類・魚類はいかにして有用/無用なものに分類され、どのように扱われるのか(=海産物の利用法)、⑤水辺の空間を安全に保ち、豊富な資源を獲得するために人間はいかなる存在にどのように働きかけるべきだと考えられているのか(=自然観・超自然的存在に対する観念)といった事項について、「台湾東北角(=東北地方)」と総称される調査地域一帯の共通性と、個人による知識の偏りの両面から理解することも目指している。そのためには、知識の共通性・個別性を生み出すことになる個々人の経験の差異や知識の伝承のされ方などにも目配りする必要があろう。
(文責:藤川美代子)