— 共同研究者の連携強化に関わる第4回国際シンポジウムの参加報告 —
日程: 2012年 12 月 7 日( 金 )~ 12月 9 日( 日 )
場所: 神奈川大学横浜キャンパス
参加者: 角南聡一郎
第四回国際シンポジウム及び公開研究会へ参加させていただいた。国際シンポでは、現代社会とミンゾク学がどのように向き合うべきかについて、様々な切り口からの試みがなされていることを拝聴し、我々に何ができるのかを考える契機となった。
泉水班主催の公開研究会では、ミンゾク学の学史研究の国際的な関係性についての議論をうかがった。我々の班のテーマである、東アジア世界におけるモノ研究の相互関係を考える上で刺激的な時間であった。
また、両日とも参加されていた他班の共同研究者と交流及び意見交換をはかることができた。 (角南 聡一郎)
平成24年度 第2回共同研究会
日程: 2012年 9月 29 日 (土) ~ 9月30日 (日)
場所: 神奈川大学 機構グループ研究室
出席者: 小熊、芹澤、志賀、中尾、小島、加藤、角南
29日 13:00~17:30
●『国際常民文化研究叢書』の章立てについての打ち合わせ
●ドラフトの検討
小熊
中尾
角南
30日 9:30~12:30
●ドラフトの検討
芹澤
志賀
●叢書についての打ち合わせ
(角南聡一郎)
調査(韓国) 【 植民地期朝鮮半島における郷土玩具と製作者 】
日程: 8月12日(日)~8月19日(日)
実施地: 大韓民国ソウル市(永豊文庫、清渓川骨董品街、近代歴史研究所、コクトゥ博物館、ソウル歴史博物館)、
安東市(河回タル博物館、儒教文化展示館ほか)、慶州市、釜山市(古書店:骨董、古書取扱店)
実施者: 鈴木 文子
植民地期における朝鮮郷土玩具の製作者について調査することが本調査の目的であった。これまで製作者については、ほとんど知られておらず、日韓併合直後から、東大門の市場や1940年代には、釜山の尋常小学校で制作されていたという記述はあるが、その実態は、不明である。当時のコレクターたちが残した玩具通信などには、日本人の要請であれ、朝鮮の職人が、「朝鮮らしさ」を演出しながら創作したという記述がみられるが、本来呪術的なイメージをもつため、人形を自宅に飾る習慣がなかったといわれる朝鮮で、何をもとに「朝鮮(郷土)玩具」が創られたのかも疑問であった。また、日本人嗜好から生まれたために、戦後人形は流通しなかったという人も多いが、大阪万博時代の人形を見たことがあったため、戦後いつ頃まで生産され、流通してていたのかを知りたかった。今回は、老舗の骨董品店、コレクターや博物館が、かつて取り扱い、あるいは現在所有している玩具(人形)の入手先などを調査しながら、製作者の手がかりを追った。また、解放後(1945年8月15日以降)も工芸村といわれた工芸家たちの工房が集まっていた慶州市や、土産物として木彫品を早くから手掛けていた河回タル博物館などがある安東市などを訪ねることにした。植民地期の職人との関連を推測したからである。
現在骨董品街として有名なのは、ソウル市の仁寺洞であるが、解放後から1970年頃までは、むしろ清渓川(地下鉄東大門駅近隣)が、その中心地であったといい、当時から骨董店を営む「民俗骨董」に知人の案内で訪ねてみた〔写真1:右〕。女主人(78歳)によれば、筆者が写真で見せた今日日本に残されている「朝鮮玩具」は、10年前までは骨董品として取り扱っていたという。慶尚北道安東の方から多くもたらされたともいうが、その詳細は記憶していない。ただし、のちの博物館や各地のインフォーマントと同様、コクトゥ(꼭두)といわれる朝鮮半島の葬儀で棺を運ぶ喪輿(상여)の装飾品を朝鮮玩具の原型として指摘していた。確かに、安東市の儒教文化展示館の権寧浩氏が蒐集していたコクトゥも、尾崎清次のコレクションの起上り小法師を彷彿とさせるものであった〔写真2:下左〕〔写真3:下右〕。また、「閑古鳥」は、寺院に女性たちが納めていた鳥とも類似していると仏教との関連も示唆していたが、のちの人はあまりこの意見には賛同しなかった。しかし、解放後は、生産者はいなくなったということだろうか。
14日、かねてからの知人で、近代歴史資料の収集家でもある金英峻氏の事務所に伺い、所有されているという朝鮮人形を見せていただく。そこには、多くの農民美術系の木彫人形や土人形があったが、興味深いのは、解放前のものもあるが、裏に英語表記のある戦後に制作された人形類があったり、何よりも驚いたのは、りっぱな両班(朝鮮時代の官僚、そこから派生して上層階層の通称にもなっている)の博多人形があったことである〔写真4:右〕。'HAKATA URASAKI DOLLS’とあるため、戦後の日本からの輸出品なのか(帰国後軍のみやげ品製造会社とわかる)。他の木彫品はソウルや大邱とあるため、韓国国内でも生産されていたのは確かなようだ。駐屯した米軍用のみやげ品ということは推測できたが、それが戦前の製作者と関連するのかは依然不明であった。
骨董品バイヤーを紹介してもらい、15日~16日、安東や慶州へ向かった。安東出身で、民俗学関連の博物館などで学芸員を務めていた大学院時代の友人権三文氏とその友人たちと合流し、各地のインフォーマントを訪ねた。交通の便が良いわけではないので、車で案内して頂いたことは、短期間に効率的な調査を進めることができ、大感謝である。慶州では、博多人形を制作していたという尹京烈氏のご子息、尹光柱氏に会ってお話をうかがえた。当初は、戦後の話と思い、関心を持っていなかったが、1930年代から博多で修業し土人形をはじめ、みやげものを制作、販売していたという〔写真5:左下〕。当時の状況が記述されている伝記も頂いた。また、その人形を発想する原型は、古代に埋葬品として使用された土偶の人形でもあるという。お話を伺ううちに、植民地期、釜山玩具愛好会を発足させ、朝鮮郷土玩具の権威であった清永完治が発行していた玩具の同人誌名が『土偶』とされていたのも、朝鮮半島における玩具のイメージを知っていたためだったのではとちょっとした発見をした気になる。また、その後1980年代まで「工芸村」という慶州の工房で働いていた彫刻家や彫金制作者から、当時中国製が流入し、韓国製を圧迫するまで、多くの職人がおり、そのなかに、朝鮮玩具の代表格であったチャンスンといわれる道祖神を彫っていた古老たちもいたという話をきいた。つまり、朝鮮の郷土玩具は、日本人が去るとともに即すたれたものではなく、中国製に圧迫されて、韓国の職人が生活を奪われたこともひとつの消滅の要因であった。大邱にも木彫の工房があったという。また、彼らの認識では1980年代までは土産物として、いわゆる「郷土玩具」は人気があり、売れていたという。
17日の釜山ではあまり収穫がなかったが、18日ソウルへ戻りコクトゥ博物館で、コクトゥの制作者について、一般の村落の住民に、彫師がいたのではないかということも伺った。いずれにせよ、郷土玩具など、手作りの工芸品は、制作量も製作者も少なく、製品のグローバル化によって、韓国内での生産が困難になったことで職人が離職し、結果玩具類が消滅したことの一因であり、単に文化論的要因だけでは、説明できないことなどが推察できた。
残存している農民美術系や土、張り子の人形は、表情にバリエーションがそれほどなく、製作者の数も限られていたのではないかという印象をもった。もうひとつ、伝統的な人形劇の劇団には、人形製作者たちもいたといい、喪輿の製作者とともに、これらの技術者たちと土産物の関係があるのか、この点が残された課題となった。 (鈴木 文子)
写真上段より:
写真1- 清渓川の骨董品店。喪輿に装飾されていたコクトゥ類(鳳凰)。色とりどりの彩色は、丹青という伝統技法。郷土玩具にもよくもちいられていた。仮面類(右奥)は、植民地期コレクターたちが好んだ蒐集品のひとつ。
写真2 左-安東地方の喪輿のコクトゥ(権寧浩氏所蔵)
写真3 右-19世紀頃のコクトゥ、尾崎コクレクションの起上り小法師の髪型、韓国にはないという人がいたが、それと類似している(権寧浩氏所蔵)
写真4- 両班の博多人形(金英峻氏所蔵)、
写真5- 尹京烈氏制作の土人形(尹光柱氏蔵)
(写真はすべて筆者撮影)
海外調査(中国) 【 天津市楊柳青に於ける民間版画の調査 】
日程:2012年 8月 7日(火)~ 8月 12日(日)
実施地: 中華人民共和国 天津市・北京市
実施者: 中尾徳仁
今回の調査は、中国有数の民間版画産地である天津市楊柳青に於いて多くの版画職人を訪問し、民間版画の技法や歴史についての話を伺ったり、制作方法をビデオやカメラで撮影することを目的とした。
調査当日は現地在住で版画研究家の姜彦文氏と、北京在住の版画家である橋爪佳子氏に同行して頂いた。具体的には版画職人である霍慶順・陳志南・霍慶有・王学勤・房荫楓・楊立仁氏の6名と、楊柳青の歴史を研究している張茂之氏に話を伺うことができた。楊柳青の版画制作は辛亥革命や日中戦争、文化大革命などの歴史に翻弄され、栄枯盛衰を繰り返してきた。上記6名の職人達はその荒波をくぐり抜け、現在も版画制作を続ける、いわば楊柳青の「生き証人」とも言うべき方々である。彼らにインタビューを行い、また版画制作の実演を撮影することができたことは、中国の版画研究にとって貴重な記録を残すことができたと考える。また張茂之氏には、自身が研究してきた楊柳青版画の歴史を90分にわたり講義して頂いた。その内容はすべてビデオ撮影することができた。
その他、民間版画を収蔵する天津博物館、天津楊柳青木版年画博物館、石家大院、北京の中国美術館を訪問し、調査を行った。 (中尾徳仁)
写真左上: 版木を彫る霍慶有氏(天津市楊柳青にて)
写真右上: 楊柳青の歴史について講義する張茂之氏(天津市楊柳青にて)
2点ともに中尾撮影
平成24年度 第1回共同研究会
日程: 2012年 6月 30日 (土)~ 7月 1日 (日)
場所: 神奈川大学
参加者: 角南聡一郎、小熊誠、小島摩文、鈴木文子、芹澤知広、中尾徳仁、槙林啓介
今回から共同研究メンバーとなられた、鈴木、中尾両氏による研究発表がおこなわれた。
・ 中尾徳仁「天理参考館蔵の中国民間版画」⇒「中華世界の民間版画」
・ 鈴木文子「趣味家が見た世界—板裕生コレクションに見る帝国日本と植民地—」
続いて、『国際常民文化研究叢書』に向けて、当班の巻をどのような方針で執筆していただたくか、について検討をおこなった。
また、新メンバーの方々は、常民研所蔵資料について閲覧をしていただいた。 (角南聡一郎)
海外調査(台湾) 【 台湾におけるQ版神仙ブームの背景とQ版媽祖商品 】
日程: 2012年 3月 5日(月)~ 3月 11日(日)
実施地: 台湾嘉義県(新港奉天宮ほか)、雲林県(西螺福興宮)、彰化県(鹿港天后宮ほか)、台北市(中央研究院民族学研究所ほか)、国立中央図書館台湾分館
実施者: 志賀 市子
今回の調査では、①台湾の廟、とくに台湾中部のいくつかの媽祖廟を対象として、売られているさまざまな宗教商品—お守り、Q版媽祖(かわいいキャラクター化した媽祖)の人形、Q版媽祖の人形のついた携帯ストラップ、Tシャツ、願掛けグッズなど—がどのようにして考案され、売られているのか、②またこうした現象がどのような背景、または文化政策のもとに、いつ頃から顕著に見られるようになったのか、③媽祖の霊力はこうした宗教商品の売れ行きとどのように関連しているのか、という問題に関して、文献調査とフィールド調査(インタビュー及び観察)の両面からのアプローチを試みた。
文献調査では、まず国立中央図書館台湾分館において、関連する論文や新聞記事などを閲覧、コピーした。また台湾中部の媽祖廟の戦略的な観光資源開発に詳しい中央研究院民族学研究所の洪瑩発氏を訪ね、関連文献の紹介や調査地のアドバイスを受けた。
Q版神仙ブームの火付け役となったのは、2007年の夏に台湾のコンビニエンスストアのチェーン「全家」(ファミリーマート)が打ち出した「好神公仔」(公仔とは人形またはフィギュアのこと)のキャンペーンだった。「好神公仔」は10種類のQ版神仙のフィギュアで、「全家」で一定以上の金額の買い物をすれば「おまけ」としてもらえる。台湾では旧暦七月は「鬼月」と呼ばれ、不吉なことがおこりやすい月とされている。旧暦七月の「有拝有保庇」(拝んでいれば庇護してくれる)の心意に乗じて、「好神公仔」キャンペーンは大成功を収め、この年の7、8、9月の売上は前年の2006年の同時期よりも10億元以上伸びた。
ただし、Q版神仙をデザインしたり、商品化したりする動きは、「全家」が初めてだったわけではない。2002年から、台湾政府は「文化創意産業」の育成を提唱し、地方の観光資源やデジタルコンテンツ産業を後押ししてきた。「伝統の中に新しい商機を見いだす」ことを掲げた政府主導のプロジェクトには、民間信仰をモチーフにしたものが少なくなかった。また台湾中部で最も参拝客を集める大甲鎮瀾宮(媽祖廟)は、Q版媽祖のロゴ(logo)デザインを印刷した商品を早くから開発して販売し、参拝客の人気を博していた。しかしながら「全家」の「好神公仔」が大ブームを巻き起こしたことによって、Q版神仙ブームは全国の寺廟に波及し、いまやどこの寺廟に行っても、Q版神仙の公仔(人形)がデザインされ、商品として売り出されるという事態となっている。
今回のフィールド調査では、台湾中部の主要な媽祖廟を対象とし、宗教商品の種類や開発、また商品販売の目的などについて聞きとり調査を行った。訪問したのは、嘉義県(新港奉天宮、北港朝天宮)、雲林県(西螺福興宮)、彰化県(鹿港天后宮)、彰化市(南瑤宮)である。 このうち嘉義県の新港奉天宮は、毎年旧暦正月十五日の元宵節から三月二十三日の媽祖誕までの時期、大甲鎮瀾宮からの進香団を始めとして十数万の参拝客が訪れる、台湾でも最も人気の高い媽祖廟の一つである。
奉天宮には廟の入り口付近に明るい照明のついたお土産コーナーが設けられており、品ぞろえも豊富である。定番の赤いQ版媽祖人形の他【写真右】、黄色の「許願媽祖」(願いごとを書いた黄色の紙を媽祖の手の部分に挿しこむ)や携帯ストラップ、ペンダント、Tシャツなど、さまざまな商品が売られている。媽祖以外にも「虎将軍」(奉天宮に祀られる神の一つ)の人形や文昌帝君の人形のついた合格祈願用のペンもある。
奉天宮で働く職員の話によれば、奉天宮のQ版媽祖のロゴや商品開発は、すべて台北にある行銷公司(販売会社)にまかせているという。会社がアイディアを出して新しい商品を開発し、奉天宮の承認を得られれば、製造する。商品の売り上げのうち、奉天宮に入るのは商標の使用料のみである。宗教商品の売り上げは、奉天宮の収入全体の数パーセントに過ぎない。したがって売れても売れなくても、奉天宮の財政にはたいした影響はないが、それでも毎年新しく開発された商品を売り出すのは、できるだけ多くの若い世代に奉天宮を参拝してほしいからだという。
Q版神仙のコレクターやマニアの間では、新しい商品に関する口コミが瞬く間に拡がる。2011年の旧暦除夕(大晦日)に売り出された「瓶中筊」(Q版媽祖の人形の下についた瓶の中に台湾ではおなじみの占いの道具ポエが入ったもの)【写真左】は、新聞で紹介されるやいなや大評判となり、一日で売り切れてしまった。台湾では、Q版神仙グッズは廟で売られているもの以外にも、観光地や空港の土産物屋にもたくさん出回っているが、香火の盛んな媽祖廟のQ版神仙グッズは、普通の土産物屋で売られているQ版神仙とは別格である。なぜなら媽祖廟のQ版神仙グッズは数に限りがあり、媽祖廟に参拝しなければ購入することはできない。媽祖廟のQ版神仙グッズの購入は、参拝による霊気の獲得とセットになっているのである。Q版神仙グッズを購入していく参拝客の中には、わざわざ商品を線香の煙にかざして(上香)持ち帰る人もいる。
ただ、Q版媽祖グッズがブームになっていると言っても、どの媽祖廟の商品も売れているというわけではない。雲林県西螺の福興宮でもQ版媽祖の人形や携帯ストラップが売られていたが、よく売れているとは言い難かった。Q版媽祖のデザインは若い信徒によるもので、プロのデザイナーが手掛けた奉天宮のそれに比べて、洗練されていないせいかもしれない。あるいは売り場の雰囲気も関係しているかもしれない。奉天宮の売り場が明るい照明に照らされたガラスのショーウインドウに商品がセンスよく並んでいるのに対して、福興宮の売り場は、従来の寺廟でよく見られるように、埃まみれのケースに商品が山積みになっているだけだった。Q版媽祖グッズは作れば必ず売れるというものではなく、商品の新しさ、センスのよさと並んで、媽祖廟の格や香火が盛んであるかどうかにも左右されるのである。
今後はさらに、こうしたQ版神仙グッズを始めとする宗教商品の開発と政府の文化創意産業育成政策との関わりや近年とみに注目を集めている媽祖巡礼活動との関わりを通して、2000年代の台湾における文化資本の新たな展開を読み解いていきたいと考えている。 (志賀 市子)
写真上段: 土産コーナー定番の赤いQ版媽祖人形
写真下段: 「瓶中筊」(Q版媽祖の人形の下についた瓶の中に台湾ではおなじみの占いの道具ポエが入ったもの)
海外調査(中国) 【 中国福建省福州での墓調査 】
日程: 2012年 2月 28日(火)~ 3月 4日(日)
実施地: 中国福建省福州市
実施者: 小熊 誠
2012年2月28日から3月4日まで、福建省福州市およびその周辺で墓調査を行った。その目的は、近世琉球に福州から伝播した墓の形態である亀甲墓について、福州で実地調査をすることであった。とくに今回注意したのは、その装飾部分である。つまり、沖縄の亀甲墓では、墓口の上部に円柱型のウーシ(臼)と呼ばれる装飾がある。それは、近世の墓からも見ることができる。この装飾部分は、福建の亀甲墓にも見ることができるかどうかが、今回の調査の大きな目的であった。
まず、福州から閩江に沿って北西に16キロメートルほど遡った郊外に位置する閩侯県徐家村周辺で調査を行った。墓職人である、徐本棟氏(1948年生、65歳)に現地でご教示いただいた。
徐本棟氏は、14歳から墓職人の仕事を始め、現在でも現役で50年ほどの経験を持っている。墓造りを請け負うと、まず風水師と一緒に墓造営の場所を探しに行く。①墓の背にあたる龍脈の善し悪しを見る。②墓の向いに見える山の形状を見る。向かいの山が、面々と幾重にも連なっているのが良い。③気の集まるところを探す。山の中腹は、あまり良くない。山の麓がいい。また、水の気が入ってきて、それを保つような場所がいい。水の気は、財と関連するので、財が入ってくるような場所がいい。こうして、大まかな場所は、墓職人である自分が探して、その場所詳しい位置や方向などは、風水師が決める。
徐本棟氏が2006年に造営した墓(写真下)は、その場所の選定に時間がかかった。埋葬する死者の頭が安定するような背山が必要である。また、風をあまり受けない場所がいい。この墓の中軸線を引くと、その向かいには3層の山が重なって連なり、いい場所である。向いの山は遠ければ遠いほどよい。
この墓は、斜面から墓坑の部分の土を掘り出し、中に遺骨を入れる3つの小さな部屋を作っている。部屋と部屋の間には溝があって水を排出する構造になっている。その上に土をかぶせ、上部はタイルで亀甲の形を作っている。墓口は、龍が筆を持った彫刻の石をはめており、その上1メートルほど上部に墓碑をはめ込んでいる。墓碑の上に屋根のついた石龍亭を乗せている。これは、構造上難しかった。これを乗せる墓は、金持ちの墓である。墓口から、壁がクランク状に3段になって入口に広がっている。その角には石柱が立てられ、その上に石獅子、仙桃、睡蓮の飾りがついている(写真上)。石獅子は避邪の意味で、仙桃と睡蓮は富貴の意味だと思われる。また、この墓の囲いが左右に伸びており、その先端には象の飾りが乗せられている(写真左)。これも、避邪の意味かと思われる。この墓の向かいには、幅約6メートル、高さ約1メートルの壁があり、左右の端と中に2本、合計4本の石柱がある。その石柱の上には、八角竹と鼓の装飾がある。また、石造りの田螺の装飾(写真右下)が乗せられていることがある。田螺の形は螺旋状になっていて、転がるというイメージがある。そこから、それは「財気が転がり入ってくる」という意味がある。
近年造営された墓には、いろいろな石造物の装飾が石柱の上に乗せられている。この習慣は、過去の墓にも見ることができるのだろうか。琉球への最後の册封使であった趙新(1809~1876年)の墓が、福州市倉山区洪山橋下店の丘の上にある。墓碑によると、光緒己卯の年、つまり清末の1879年に造営された墓である。山を背にして、左右は龍脈に囲まれ、前面は閩江が流れて広々として、遠く山の連なりを望むことができ、風水立地の良いところにある。しかし、今では誰も管理していないのか、草に覆われており、5段の墓地といわれる石積みは所々崩れて、清朝官僚の立派だった墓地の姿は今に留めていない。
趙新墓の墓碑の前面両側に、石獅子が置かれている(写真左)。これは、今と同じ避邪の意味があると考えられる。そのほか、墓囲いの結節点にある石柱にも装飾が見られる。一つは、円柱に見えるが(写真左上)、表面に螺旋状の線がかすかに見えるので、田螺だったかもしれない。もう一つは、草の弦に覆われているが、花弁のような形が見えるので、睡蓮かもしれない。
福州市の郊外に林浦という村がある。沖縄の林家の祖先が、この村から琉球に渡ったという言い伝えがある。この村は、林姓一姓による宗族村で、林浦林家は、明代に3代続けて科挙に合格したという名門である。科挙に合格した初代は、林瀚という祖先で、1432年に生まれ、1466年に進士及第、南京で尚書の位まで昇り、1519年に亡くなっている。この林瀚の墓は、林浦集落の裏山裾野にあったが、高速道路の建設でそこが立ち退きになり、さらに裏の山の中腹に移転されている。
林瀚の墓は文革で破壊され、1988年に再建されている(写真上左)。それがさらに移転されている。したがって、それが古い墓型を留めているとは限らない。林瀚の墓は、敷地が3段になっている。墓碑手前の墓囲いとの結節点にある石柱の上には、仙桃の装飾が施されている(写真上右)。
福州市の南部、倉山区に高蓋山という海抜202メートルの山がある。そこは高蓋山公園となっており、緑豊かで山登りの道が整備されている。そこは、以前から周囲の人々の墓地地帯でもある。現在も、新旧多くの墓がこの山に点在している。その一つに、光緒乙未、つまり光緒21(1895)年の墓碑のある墓がある(写真下左)。この墓碑の前面にある石柱に、睡蓮のような装飾が見られる。また、民国廿五(1936)年の墓碑がある墓には、球状の装飾がある(写真下右)。これは、仙桃の意味があると思われる。そのほか、近年に造営された墓もたくさんある。それらには、石獅子を始め睡蓮や八角竹などの装飾を見ることができる。
以上から考えられることは、福州一帯には、清朝から石柱の上に石獅子や、仙桃、睡蓮、八角竹などを飾る習慣があった。近世に、福州から琉球に亀甲墓の形式が伝播した。その際に、この装飾も伝播されたかどうかであるが、どうもこれらの装飾は沖縄の亀甲墓には見られない。これらは、中国における吉祥のイメージであり、このイメージが琉球には受け入れられなかったものと考えられる。その代わり、ウーシ(臼)という装飾が琉球で発達したようだ。今後、琉球、沖縄におけるウーシの意味を考えていく必要がある。 (小熊 誠)
写真上段左より右下へ: ■ 徐家村の亀甲墓 ■ 亀甲墓を背後から見る
■ 石獅子の装飾 ■ 仙桃の装飾 ■ 睡蓮の装飾
■ 象の装飾
■ 田螺の装飾
■ 趙新の墓と石獅子 ■ 趙新墓の装飾
■ 林瀚の墓 ■ 林瀚墓の装飾
■ 高蓋山の光緒年間の墓 ■ 高蓋山の民国期の墓
(すべて筆者撮影)
海外調査(ベトナム) 【 ハノイで紙銭が燃やされる日 】
日程: 平成24年 2月 15日(水)~ 2月 23日(木)
訪問先: ベトナム国ハノイ市、ハノイ国家大学他
実施者: 芹澤知広
昨年度に引き続き、漢字がデザインに使われている工芸品である「紙銭」に焦点をあてて調査を行った。
例えば台湾においては、紙銭は今や伝統中国版画のひとつのジャンルとして収集・研究の対象ともなっているが、ベトナムでは、もっぱら本来の目的で紙銭が使われている。
市場などで買われた紙銭は、特別な日に神や先祖に捧げられ、燃やされることによって、あの世へ送られていく。そのため紙銭は跡形もなくこの世から姿を消していき、いっぽうで人々は、その都度新たに紙銭を買わなければならない。
人生儀礼や年中行事のなかで、特別に紙銭や供物が準備される機会はいくつもあるが、ハノイの人々にとって、ふつうに紙銭を燃やす機会は、旧暦の1日と15日である。この日は家の軒先で紙銭が燃やされるだけではなく、宗教施設が一斉に開放されるため、人々は供物とともに紙銭をもって参詣し、施設内の炉で紙銭を燃やす。今回の調査期間のなかでは、2月22日が、旧暦の2月1日にあたっていた。
この日にハノイ市内のいくつかの宗教施設を訪れたが、ここでは、ある一族の祠堂と、ある仏教寺院で行った観察について紹介してみたい。なお、ベトナム北部では、村の中心的な宗教施設であり、城隍神を祀る「亭」(ディーン)と、他の神を祀る「厨」(チューア、仏教寺院のこと)や「廟」(ミウ)、英雄などの人物を祀る「殿」(デン、「土へん」がつく)とが隣接し、亭の祭りに厨や廟の神が亭へと招かれることがよく見られる。しかし今回訪問した祠堂と仏教寺院は、それぞれ別の村のものなので、ここでは関係がない。
この祠堂では、毎月2回、旧暦の1日と15日に扉が開けられる。今日2月22日の7時半にここを開けて座っているのは、当番のおじいさんである。かつて当番の仕事は、年齢や排行の高い長老がつとめたが、1991年から一族のなかの8つのブランチが持ち回りで1年ずつ当番を出すというかたちになった。
年に2回の祖先の命日にお祭りをするほか、旧暦の12月、最初の日曜日に一族が集まって祖先の墓の掃除をするという。その日には人々が多く集まり、宴会のテーブルは20を数えるらしい。
今日は午後1時には祠堂を閉めるが、その前の12時ころ、一族の人たちが持ってきて祭壇にあげた紙銭を燃やすことになった。おじいさんは紙銭をもって祠堂の建物の脇にある小さな炉のスペースへ移動した。いわゆる百円ライターで火を点けた後、その炉の上で次々と紙銭に火を移し、短時間のうちに全て燃やした(写真上参照)。
この仏教寺院は、ある村の中心的な仏教寺院であるが、12世紀に建てられた古刹であり、村人以外にも多くの参詣者がある。建物のなかでは、老年女性が紙銭や線香を売っている。
参詣者は、建物のなかのテーブルに置かれたプラスチックの皿(レストランや家庭で使われるような食器の皿)を自由に使って、自分が持って来た果物、菓子、花、紙銭を皿の上に並べて供物のセットを作る(写真左参照)。祭壇に置かれた供物には、果物や菓子のあいだに紙銭ではなく、本物の少額の紙幣を挿しているものもある。参拝が終わった後、供物を各自が持ち帰り、紙銭は建物から少し離れたところにある大きな炉の中へ自分で入れて燃やす。
興味深いことに、この祠堂とこの仏教寺院で燃やされている紙銭は、ほとんど変わりがない。基本的なセットは、白地に赤く「DIA PHU」(「地府」のこと)とベトナム語で書かれた紙銭、米ドル札を模した白黒の紙銭、赤字に四角い金箔が貼られた金紙、赤色の銭型が並んだ黄色い紙、の4種類からできている。このセットがビニール袋に入れられて売られていることもあれば、この仏教寺院内のおばあさんたちがしているように、ビニール袋はないが、重ねてから半分に折り畳んでセットとして売るという場合もある。
中国文化の紙銭使用のルールからは、神仏には「金紙」を、祖先には「銀紙」を使い、対象によって使う紙銭が異なることが予想されるが、ハノイ市内の宗教施設での観察からは、その違いを見つけることができなかった。その点では、「金銀紙」として一括している香港の例によく似ている。 (芹澤 知広)
写真上段: 祠堂の脇の炉で紙銭を燃やす
写真下段: 皿に載せられて祭壇に並べられた紙銭
(ともに筆者撮影)
平成23年度 第3回共同研究会
日程: 2012年 2月 18日 (土)
実施場所: 神奈川大学
参加者: 小熊誠、朽木量、角南聡一郎
- 小熊先生による2月13日(月)~15日(水)東アジア島嶼・海域学術検討会(韓国・木浦大学島嶼文化研究院)参加の報告
- 角南による11月フィリピン調査の報告
- 朽木さん調査研究の報告 一昨年のシンポジウムからの進展を紹介
- 論文作成と研究会のスケジュールの相談をおこなった。
(角南 聡一郎)
海外調査(韓国) 【 韓国多島海の干潟‐濁りの美学‐ 】
日程: 2012年 2月 13日(月)~ 2月 16日(木)
実施地: 大韓民国多島海、木浦大学校島嶼文化研究院
実施者: 小熊 誠ほか
韓国の東海岸南部に広がる多島海の調査は、昭和11(1936)年8月に渋沢敬三が宮本馨太郎などのアチック同人と共にここを訪れ、16ミリフィルムや写真の記録を残している。今回は、その足跡をたどる目的で、2012年2月14日から15日まで、木浦大学島嶼文化研究院の先生方と共に多島海調査に出かけた。
昭和11年の調査には、当時京城にいた秋葉隆も参加しており、「多島海巡航記」(アチックミューゼアム編『朝鮮多島海旅行覚書』1939年)という文章を残している。そこには、「両側の泥に小蟹が無数に這廻って居る」(2頁)とか、上洛月島から下洛月島に歩いて渡る際に「一歩水路の外を踏めば粘泥で気持が悪いので、一行十数人長蛇の列をなして水路の曲り進むがままに行く」(4頁)などと干潟に関する記述が見られる。その時の16ミリフィルムにも、干潟を歩く一行の姿が映し出されている。多島海のこの干潟は、この地域の自然環境の特徴だけでなく、そこに暮らす人々の生活に大きな影響を与えている。
14日朝8時10分、低い雨雲にかすむ木浦の港を漁業監視船の全南213号で多島海に乗り出した。港を離れると、すぐに大小の島影があらわれ、その間を縫うように船は一路北の上洛月島を目指した。その景色をカメラに収めようと、調査団の仲間たちは思い思いに甲板に出てシャッターを押す。
まず、気付くのは海の色が土色に濁っていることである。そして、島の周囲には土泥が溜まり、一面がいぶし銀のように鈍く光る干潟で囲まれている。青く透き通る海の中に、珊瑚のリーフに囲まれている美しい沖縄の島々の思い出がよみがえり、それと比べてあまりにも泥臭い海の風景に、正直少しがっかりしながら、船室に戻った。しかし、その印象は、船室の中で姜鳳龍院長が私たちにしてくれた講話によって大きく変わることになる(写真右)。
姜院長は、干潟で囲まれている多島海の島々は、潮の満ち引きによって一日4回その大きさを変えるという話しから始めた。干潟の色は、黒くて柔らかいので、ここはブルー・オーシャンではなくて、グレー・オーシャンだ。そこには、多様な生物が棲んでいる。干潟にはミネラルなどが豊富で、ここから取れる魚介類は、栄養価が高く、美味しい。また、韓国の西海岸と南海岸で塩が作られているが、このあたりでは干潟を利用して塩を作ってきた。ここの塩は、ミネラルが豊富で、美味しい。黒い干潟から、白い塩ができるのはとても不思議だ。また、このあたりのマッコリ=濁酒はおいしいし、地元で好まれている酒でもある。全羅南道は、パンソリでも有名だ。濁酒を飲みながら、パンソリを聴くのは何とも言えない。ここの人々は、濁った海に生き、濁った酒を飲み、濁った歌を聴く。それぞれケミ(地元の言葉で、深い味という意味)があり、影がある。ここには、濁りの美学がある。
10時35分、2時間半ほどの乗船で上洛月島に着いた。最初の上陸地点である。船着き場に続く入江は、引き潮のせいか一面に広い干潟から海水が引き、土泥の上に船が傾いでいる(写真下右)。
上洛月島の巡見の後、下洛月島に徒歩で渡る。76年前、渋沢敬三をはじめとするアチックの一行も、この干潟の海を歩いて渡った。今は、海の真ん中を堤防の道がまっすぐ一本二つの島を結んでいる(写真下左)。進行左側には、以前に歩いて渡った干潟の道のあとがかすかに残っている(写真下右)。
午後、水島に上陸した。小高い山の頂には、神を祀る石垣に囲まれた空間があり、沖縄のウタキを思わせる宗教空間である。この島も、海岸は分厚い土泥でおおわれ、はるか沖に舟が停泊している(写真下左)。さらに、島と島の間に土泥がたまり、そこを利用して塩田が広がっていた(写真下右)。
翌日、荏子島の下牛里から村落巡見を始め、智島にフェリーで渡り、さらに曾島を回った。そこでは、今回の調査の最後に、干潟博物館と塩博物館を見学した。そこで、干潟に関するさらなる情報、知識を得ることができた。
干潟には、泥干潟、砂干潟、混合干潟の3種類があり、ここ多島海にはその3種がすべてあるという。その理由は、この干潟の形成と関係する。そもそもこれだけの砂や土泥は、どこから来たのだろうか。驚くことに、中国の黄河が流し出した土砂が、長い年月の間にここまで流され、島の西側に砂がたまって砂干潟となり、その裏側に土泥がたまって泥干潟を形成していったという。そして、ここの泥は深く、その深さによって生物たちも棲み分けをしている。これほど広い干潟は、デンマークとノルウェーに広がる干潟、アマゾンの干潟、ミシシッピーの干潟、カナダの干潟とともに世界5大干潟の一つとして認定されている。
環境と開発は、現代社会に課せられた大きな課題であるが、この曾島は2007年にイタリアに本部が置かれている国際スローシティ連盟からアジアで初のスローシティに認定されている。この連盟の会長が、「曽島の干潟と塩田は、神様がくれた祝福の地であり、天日塩は神様からの生命の贈り物」と絶賛したといわれ、この島の天日による塩作りは、世界各地から体験者が来ている。さらに、2009年には、ユネスコから生物圏保存地域に指定され、環境保全と観光に力を入れることで、地域の活性化を図っている。
遥か中国からもたらされた土砂によって作られた多島海の濁った干潟は、そこに住む人々の生活を形作ってきた。濁酒を飲み、パンソリを聴いて、ささやかに生きて来た。しかし、多くの若者は、仕事を求めて都会に出ていった。それでも、今、そしてこれからも干潟に囲まれてここの人々は生きていく。そして、そこには豊かな自然と文化が残され、それを求めて再び人が集まってくる日が来るだろう。干潟と島々、濁りの美学を育んできたそこに住む人々の暮らしを、さらに知りたいと思う。 (小熊 誠)
写真左上より右下へ:
■ 船上にて(筆者) ■ 船室で(左端が姜鳳龍院長)
■ 佐野運営委員長と姜鳳龍院長(右) ■ 入江の船、海水が引き傾いている。
■ 海の真ん中を堤防の道がまっすぐ一本二つの島を結んでいる。
■ 進行左側には、以前に歩いて渡った干潟の道のあとがかすかに残っている。
■ 海岸は分厚い土泥でおおわれ、はるか沖に舟が停泊している。
■ 島と島の間に土泥がたまり、そこを利用して塩田が広がっている。
■ 調査に参加した面々 ■ 塩田の日没
(すべて筆者撮影)
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