補足調査(中国:上海・北京) 【 葬儀関連機構における文献調査 】
日 程: 2011年11月30日(水)~12月9日(金)
訪問先: (機関名)上海殯葬文化研究所、上海殯葬博物館、上海図書館、北京国家図書館
実施者: 何 彬
<上海>
数年前に上海葬儀関係博覧会参加の際に知り合った上海殯葬文化研究所の所長と副所長を訪問し、研究所の仕事及び上海地区の葬送の歴史と現状について聞き取り、研究所刊行の『殯葬文化研究』の近況及び上海葬儀業の動向をインタビューした。文献として研究所の刊行物を数冊購入した。
上海殯葬文化研究所所長の紹介により、2008年5月に開設された中国で最初の葬儀関係の博物館「上海殯葬博物館」(写真上左参照)を見学できた。ここでは上海葬儀場や公墓(霊園)、葬法の変遷を示した展示には、多くの貴重な写真と文献が展示されていた。個々の展示室(写真上右参照)を詳細に見学できただけでなく、さらに博物館内に設けられた「上海殯葬専業図書館」を見学し葬儀、葬法に関する文字資料を調査することができた。
展示されている写真の一部は上海図書館から入手したとの情報があったため、上海図書館でも、上海地区における葬儀と墓地関連の資料を調べた。
1995年に上海科学技術研究所と合併して新しく開館した上海図書館は、淮海路1555号にあるが、地下鉄やバスで行けるなど交通の便が良い。そこでパスポートで閲覧証を作ると、閲覧室で資料を調べたり閲覧したりすることができる。
今回は、上海及び江蘇省、浙江省関連の葬儀、墓地に関する書籍を調べ、特設される「上海地方文献データーバンク」で上海地区の葬送関係の図書及び上海地区の1920年代以後の写真データーを調べた。上海市の1930年代以後の墓地や葬式関連の写真数十枚を見つけ、一部複製はできたが、上海地域及び江南地域の葬送関連の文献リストを作ったけれど、館内のPCから自分宛にメール送信する機能を利用したが、なぜか一通しか受信できなかた。海外への送信は簡単にできるものでないかもしれない。
このほか、上海龍華殯儀館(葬儀場)内に設けられた葬儀関係品を販売する「スーパー」を見学し、棺及び骨壷の売り場(写真上、左右参照)や葬儀後、参列者へ配布する「謝礼」の品物(写真下、左右参照)を扱うコーナーで話を聞き、上海地区における葬儀後の「謝礼」という習俗の存在及びその現状を伺った。
<北京>
北京では、連日国家図書館で葬送関係の文献を調べ、一部を複製したほか、博士学位論文文庫をたずね、墓地、葬儀、埋葬習俗に関する関連の学位論文を調べた。学位論文二冊を予約したら一時間後閲覧できるという制限があり、コピー機は以前の依頼複製からセルフサービスに切り替え、自己でコピー機を操作できることは自由が利き良いであるが、いつも数人並べている様子である。ここでも同じ失敗を繰り返した:調べた文献のリストを自分宛に送信する機能を利用したが、端末では送信成功と表示されていたものの、一通も受け取れなかった。次回はその利用法をチェックしてみる。
今回の補足調査(主に文献調査)では、都市の葬儀業界の変貌をインタビューしたほか、文献調査では博士学位論文の調べでは葬送や墓地、葬法を対象として研究を行っている人がいることが分かった。また、考古学や歴史学分野から関連書籍が刊行されていることを一部把握したほか、中国の図書館の変貌ぶりと利用法の多様化を知った。 (何 彬)
写真上段: 上海殯葬博物館(左) 殯葬博物館の展示(右)
写真中段: 棺が販売されている(左) 骨壷が販売されている(右)
写真下段: 「謝礼」用品販売コーナー(左) 「謝礼」の一例(右)
海外調査(フィリピン)
日程: 2011年 11月 23日 (水)~ 11月 28日 (月)
実施場所: フィリピン・マニラ
実施者: 角南聡一郎
フィリッピン国立博物館、菲華歴史博物館などの施設を見学した。また、フィリッピン大学デリマン校にて文献調査を実施した。チャイナタウン及び華人墓地で物質文化についての調査をおこなった。 (角南聡一郎)
平成23年度 第2回共同研究会
日程: 2011年 11月 19日 (土)~ 11月 20日 (日)
場所: 神奈川大学
参加者: 角南聡一郎、槙林啓介、何彬、太田心平、芹沢知広、志賀市子、小島摩文
11月19日(土) 13時半~
以下の各メンバーの発表(報告論文にむけて)
何、志賀、太田、小熊
11月20日(日) 9時半~
各メンバーの発表つづき
角南、槇林、芹澤 コメンテータからのコメントがあり、報告書に向けての編集方針について議論した。(角南聡一郎)
平成23年度 第1回共同研究会
資料調査(奈良) 【 戦前に収集された東アジア民具の検討 】
日程: 2011年 7月 16日(土) ~ 17日(日)
訪問先: 天理大学附属天理参考館
参加者: 小熊誠、角南聡一郎、芹澤知広、槙林啓介
戦前よりアジアを中心として世界各地の資料を収集し、展示収蔵がなされている天理大学附属天理参考館。本共同研究とも収集時期がものがある点、中国、台湾、朝鮮といった資料も多数ある点などから、調査をおこなった。当日は、開催中の特別展「朝鮮半島 くらしの石もの」を展示を担当された吉田裕彦学芸員のご案内で見学し、資料の詳細について話をうかがった。その後、元興寺文化財研究所へ移動し、今後の活動予定などについて話し合いをおこなった。 (角南聡一郎)
海外調査(香港) 【香港で売られている紙銭】
日程: 2011年 3月 27日 (日)~ 3月 31日 (木)
実施地: 中華人民共和国香港特別行政区・香港歴史博物館他
実施者: 芹澤知広
香港の「紙銭」(「冥紙」とも呼ばれ、祭祀用品として作られて流通する、貨幣を模して印刷された紙製品)については、すでに日本で詳しく紹介されたことがある。可児弘明は、1973年に発表された「符疏に関する調査(香港)」(『史学』第45巻第3号)と、それを発展させた2004年の著書『民衆道教の周辺』(風響社)の第6章で、1970年代初頭に香港で収集された紙銭を、写真を交えながら網羅的に紹介している。また、瀬川昌久は、1980年代の調査の過程で収集した紙銭を、1987年に発表された「あの世の財貨 -香港の紙製祭祀用品」(『季刊民族学』第39号)のなかで、カラー写真を使って紹介している。
とくに可児弘明の研究を通じてわかる重要な点は、香港は台湾に比べて紙銭の種類が少なく、「金銀紙」としては、「壽金」、「金紙」、「銀紙」の3種類、それ以外には「元宝」、「渓銭」、「陰司紙」、「往生銭」があるだけだということである(可児、前掲書、218頁)。さらには、冷戦たけなわの1960年代から70年代にかけての時代でさえも、多くの紙製祭祀用品が中国本土から香港へと移入されていたという指摘もある(可児、前掲書、163頁)。
今回の調査で紙銭を扱う商店をいくつか訪れたが、可児の指摘する紙銭一般の種類の少なさは、現在も同じであることがわかった。例えば、もっとも一般的である「金紙」と「銀紙」は、「金銀(カムガーン)」として、一束にまとめて売られている。しかし、「陰司紙」には、時代を反映して、現在多くの種類があることもわかった。例えば、A店の場合、香港ドルを模したものの他、米ドル、人民元、ユーロ、イギリス・ポンド、カナダ・ドルを模したものがあり、また大きさも、現実の紙幣に比べて少し小ぶりのものから、かなり大きなものまで様々であった。
2年前にも紙銭を売る別の店で聞いたことがあったが、現在香港で売られている紙銭は、すべて中国本土で作られていて、香港製のものはない。A店で聞いたところでは、香港向けの製品と中国本土向けの製品のあいだに区別はないが、香港に入ってきているものは中国で使われているものに比べて高品質だという。A店の「壽金」の束に附属した紙ラベルには、広東順徳の「泰興牌」というブランドであることが示され、バーコードのところにベトナム語と英語も併記されているので、ベトナム向けか、あるいは海外のベトナム人コミュニティ向けとしても輸出されているようだ。
上記の先行研究では、もっぱら広東人や香港人の文化を代表するものとして香港の紙銭が紹介されていたが、今回、A店でのやりとりを通じて、「広府人」(広州市とその周辺地域に祖籍地をもつ人々で、香港の中国人の多数派を占める)以外の中国人のグループのための紙銭も香港で売られていることがわかった。A店では、「公銭(広東語の発音でコンチン)」という、潮州人(広東省東部の汕頭を中心にした地域に祖籍をもつ人々)が祖先祭祀に使う金銀紙を売っていた(写真右)。
なお、潮州人の経営するA店は、新界の市場町にあり、この市場町近くの「客家人」(広東省内陸部の梅県を中心に居住し、新界では広府人よりも後の時代に入植した人々)の村落で生まれたB氏が、A店を紹介してくれた。B氏によると広府人と客家人とのあいだで、使用する紙銭には違いがないという。
A店を訪れた翌日、むかしから潮州人が多く住み、近年はタイ料理店が集中することで知られる九龍城へ行った。ここのC店では、A店のものとは異なる潮州人の紙銭が売られていた。店員によると、これは「潮州金(広東語でチウチャウカム)」だという(写真左)。また、近くのD店には、上海人のための「錫箔」(広東語の発音でセッハック)という銀紙が売られていた(写真下)。
戦中から戦争直後にかけて、自身とその財産に加えて、軽工業の機材とノウハウなどを香港へ移した上海人企業家が、戦後の香港の経済発展を牽引したことはよく知られている。さらに戦前の上海が、中国の近代仏教の中心地のひとつで、上海ゆかりの僧侶が、共産主義革命の後に香港や台湾、海外の中国人社会へと多く脱出し、中国仏教の発展に貢献したことも事実である。しかしながら、同じく戦後香港に多く流入し、すぐれた企業家を輩出した潮州人の宗教文化についての調査研究が多く行われてきたことと比べて、戦後の香港における上海人の宗教生活について、私たち香港研究者は、ほとんど何も知らないのではないか。九龍城で入手した「錫箔」を眺めながら、このような問題に思い当たった。 (芹澤知広)
写真上段より下段左・右
・香港で売られている潮州人の「公銭」
・香港で売られている潮州人の「潮州金」
・香港で売られている上海人の「錫箔」
海外調査(中国) 【 広東省広州地域における死後の埋葬習俗と墓地の今昔 】
日程: 2011年3月14日ー3月21日
実施地: 中国広東省 広州市及び周辺地域
実施者: 何 彬
広東省広州地域における死後の埋葬習俗と墓地の今昔に関する調査を実施した。調査の目的は、墓の形、墓の使い方(一次葬・復葬)から人々の死に関する諸観念(祖先観・他界観・霊魂観など)を認識し、把握することである。今回は具体的に下記の場所での調査を行い、拾骨改葬の聴き書きをも行った。
(1)「広州市銀河革命公墓」
(2)「新華永久霊園」、「華僑公墓」
(3)「広州満族墳場」
(4)「広州回族墳場」
(5)花都区古代墓の「石棺」
(6)花都区花山鎮改葬の墓地
(何 彬)
海外調査(香港) 【香港・広東から見直す中国史観】
日程: 2011年 3月 10日 (木)~ 3月 14日 (月)
訪問先: 中国(香港) 香港中文大学
実施者: 槙林啓介
香港中文大学中国文化研究所中国考古藝術研究センターは、香港のみならず広東・福建・澳門も含めた考古学的研究の中心のひとつである。地元の香港や澳門の研究機関・博物館とだけでなく、大陸の広東省文物考古研究所などとも共同で華南の考古・文物調査に長年従事し、多大な成果をあげている。また、本センター文物館では、華南や華僑の歴史・文化に関するこれまでの調査成果を収蔵および展示している。今回は、そのうち先史に関する資料を本センター教授の鄧聡先生のご厚意により、実見させていただいた。
香港・広東地域の中国史における位置づけは、その周縁部の地域史にとどまっていたが、近年の調査から、新たな地域形成に関する歴史像が提示され始めている。例えば、湖南省湯家崗遺跡と広東省深圳咸頭嶺遺跡の両遺跡で、白陶と呼ばれる非常によく似た様式の土器が出土している。このことは、長江中流域と広東地域の社会とが新石器時代から密接な交流を行っていたことを示しており、これまでの中原中心史観に再検討を迫るものとなっている。つまり、中原地域との交流のもと成立したとされている長江中流域の社会は、実は広東地域との交流もその成立に大きな影響をあたえていたのである。
また今回は、文物館での資料実見だけでなく、香港・澳門の重要な先史遺跡を踏査する機会を得た。香港深湾遺跡、同大湾遺跡、澳門黒沙遺跡などは沿岸砂丘上に形成した新石器時代後期から殷周併行期の集落遺跡で、中原を中心に広く分布する玉器が出土していることで知られている。遺跡は島嶼部に位置し、今後は漁撈活動だけでなく沿岸水上交通を検討することで、前述の大陸の内陸部との関係だけでなく、沿岸部の交流も復元する必要がある。
さらに、研究交流の一環として、「中國新石器時代農業文化的形成和變容-為了探索中國文化的基層性和多樣性-」とう題目で研究発表を行った。中国文化形成を考察する際に、「栽培体系」と「食文化体系」(注)を取り上げることで、その多元的で多様な様相が理解できることを論じ、それに対し参加者からも貴重な意見を賜った。香港から中国そして東アジアの歴史や文化を再検討する意義を重視しながら、今後も研究交流を深めていきたい。 (槙林啓介)
(注)筆者が下記拙文で提示した概念である。槙林啓介2008「中国新石器時代における農耕文化の形成と変容-黄河・長江流域における農耕具・加工調理具を中心にして-」『東アジアの文化構造と日本的展開』北九州中国書店
写真上段より
・香港中文大学の鄧聡先生と学生さんたち。WongTeiTung遺跡にて。
・南Y島大湾遺跡遠景。中央の砂浜の背後、沿岸砂丘上に遺跡がある。
海外調査(韓国) 【 植民地期朝鮮に関する写真記録物の資料調査 】
日程: 2011年 2月 22日(火)~ 2011年 3月 7日(月)
訪問地: 大韓民国(ソウル大学、韓国国立中央図書館、ほか)
実施者: 太田心平
植民地期朝鮮において撮影された写真は、当時の朝鮮の状況を伝える以外にも、多様な資料的価値をもっている。それらの写真は、撮影者(ほとんどは日本人)の視点を反映しているという点でも多くを伝えている。また、それらが後世の人びとの目にどう映り、植民地朝鮮に関する記憶が再構成されるかという点においても、研究資料となるものである。ただし、その保存や集積の状況はすでに劣悪な状況にあり、かつ韓国・朝鮮における写真機や記録媒体の時代的な変遷を把握する研究はまだ発展途上にある。
昨年度に行った前回の海外調査では、植民地期朝鮮において日本人研究者が撮影したガラス板写真を閲覧し、その保存担当者の知見を求めることにより、写真そのものに関する調査を行った。これを受けて今回の海外調査では、主にソウル大学中央図書館および韓国国立中央図書館にて、写真機や記録媒体の時代的な変遷を示す文献資料や先行研究を収集した。また、植民地期に写真機を所有していた者や、韓国の写真史に関心をもっている者など、当該分野の知識をもつ人物に対し、現地での面接によるインタビュー調査をおこなった。
この結果、植民地期朝鮮で使われていた写真機や記録媒体は、西欧や日本の写真史研究で述べられているよりも確実に旧式のものだったことが明らかとなった。その詳細は先行研究でも曖昧なままであり、今回に収集した資料を分析することでさらにひもときたい。また、植民地朝鮮においてもフィルム媒体がすでに登場していたとされているにも関わらず、他方ではガラス板写真の方が現在に多く残され、学界や市場で近年に着目されているということが明らかになった。この問題をひもとくことは、それぞれの記録媒体が現地において実際に流通していた時期を明らかにする歴史学的な意義だけでなく、現在の人びとが植民地朝鮮の時代状況をどう理解しようとしているのかという考現学的な意義ももつだろう。 (太田心平)
写真: 韓国の古物商が売っている植民地期のガラス板写真の写本
海外調査(ベトナム) 【ハノイ市における紙銭の生産】
日程: 2011年 2月 25日 (金)~ 3月 2日 (水)
訪問先: ベトナム国ハノイ市、ベトナム民族学博物館他
実施者: 芹澤 知広
ベトナム民族学博物館のキン族(京族、あるいはヴェト族。ベトナム国を構成する最多数民族)に関する展示品は、ハノイ近郊を中心に、ベトナムの村落でつくられる工芸品を多く含んでいる。また、近年は無形遺産への関心の高まりから、「ベトナムにおける工芸村の発見」というハノイ近郊の工芸村見学のガイドブック(ベトナム語版、フランス語版、英語版がそれぞれある)も2009年に出版されている。
歴史的に中国からの思想的・技術的影響を大きく受けてつくられてきたベトナムの工芸品が、漢字のわからない住民が大半である現在のベトナムの社会のなかで、いかに生産され、流通され、消費されているのかという問題は、本共同研究にとって興味深い課題のひとつになろう。いっぽうで、この問題は上記の、近年における伝統工芸の再評価とも強く結びついている。現在ベトナムでは、中国の安価な工業製品が、大量に輸入されて、消費されているという大きな事実がある。そのなかで、自国の製品を自国向けに生産していくということは、ベトナム国家の現代的な課題のひとつである。
昨年に引き続き、漢字が使われた工芸品や遺物に焦点をあててハノイ市にて調査を行ったが、この報告ではとくに「紙銭」(金銭を象った紙製の冥具)の生産をとりあげる。ベトナムにおいて紙銭は、中国南部地域と同様、伝統的に葬送儀礼や紙祇祭祀に使われ、あの世への供物として燃やされてきた。ハノイ市を含むベトナム北部において紙銭は、共産主義イデオロギーが浸透するなかで、一時期には「迷信」として排除の対象となったが、精神性に重きを置く近年のベトナムの宗教政策と、それにともなう宗教復興の流れのなかで、今や大きな需要をもつ重要商品となっている。
今回の調査では、紙銭の生産を行っているハノイ市のコ村を訪れた。コ村は、かつて書道で使う紙の生産に特化した村であったが、書道が廃れるとともに紙の需要がなくなり、紙銭の生産へと移行した。現在はハノイ市の都市化のなかで、村の輪郭やむかしからの家屋がはっきりとはわからないような状況になっているが、村のなかの家の多くが家内工業として紙銭の生産に関わっている。
印刷された紙を裁断して束ねる工程を行っている、ある工場の女性社長にインタビューをした。1970年代から80年代にかけて、「米ドル札」を模した紙銭の需要が生じた時には、この村の伝統的な紙銭製作技術では対応できず、いったん生産をやめたという。そして、当時は中国からの輸入製品ばかりが市場に出回るようになった。しかし、今は米ドル札の紙銭も含め、この村で紙銭を生産し、ハノイ旧市街のハンマー通り(紙製祭祀用品の小売に特化した通り)へ紙銭を卸しているという。
紙銭を印刷する紙は、廃紙のリサイクルを行っているバクニン省から再生紙を買い、それを村内の印刷所へ回して印刷を依頼する。使用する紙の量は、一家庭(工場)あたり年間、30~50トンにもなるという。様々な種類の紙銭のなかで、銭貨を象った黄色い紙は汚いので、再生紙として他に使い道がないという。
なお、銭貨を象ったベトナムの紙銭はベトナム語で「金色の紙」といい、もっとも古いかたちの紙銭である。コ村はもともとその生産に特化した村であった。赤い色で銭貨のかたちをなぞって印刷されているが、その黄色の紙に銭貨の並んだデザインは、沖縄で「ウチカビ(打ち紙)」や「カビジン(紙銭)」と言われて使われているものによく似ている。 (芹澤 知広)
写真上: 収集したベトナムの紙銭
海外調査(台湾) 【 媽祖の霊力を物に付着させること 】
日程: 2011 年2 月17 日(木) ~2011年2 月22 日(火 )
実施地:台北:国立中央図書館台北分館、国立台湾博物館、台南:大天后廟ほか、台中県大甲:大甲媽祖廟
実施者:志賀 市子
-台北ー
主に、国立中央図書館台北分館台湾学研究中心で、台湾の信仰や物質文化関連の文献収集を行った。この図書館は、外国人も手続きをすればすぐに利用することができ、リファレンスサービスも充実している。台湾学研究中心には台湾の主要な学術雑誌のバックナンバーが揃っているため、非常に便利である。
- 台南 -
台南市の主要な廟、台湾最古の媽祖廟や関帝廟で提供されているお守りや符、祈願用のさまざまな物についての調査を行った。
- 台中県大甲 -
20日に台南から台中へ移動し、台中からさらにバスで、台中県大甲鎮瀾宮(媽祖廟)に向かった。元宵節からまもない日曜日ということもあって、一般の参拝客や各地から訪れる進香団の人々で、廟の内も外も、ものすごい熱気に包まれていた。
鎮瀾宮は、台湾の数ある媽祖廟の中でも、最も早く福建省の媽祖発祥の地、莆田県湄洲島を巡礼した廟であり、またマスメディアをうまく利用した宣伝のうまさでも知られている。Q版媽祖のキャラクター商品をいち早く創り出したのも鎮瀾宮である。廟の一角には媽祖キャラクターグッズの売り場があり、媽祖キャラクターを付けた地元産の醤油や酒などの商品も売られている。媽祖キャラクター商品と一般の人気アニメなどのキャラクター商品との大きな違いとは、媽祖キャラクター=媽祖の霊力を帯びた物という意味を持つ点である。
こうした商品の販売は、信者たちの媽祖の霊力をできるだけ多く物に付着させたいという心性をうまく利用したものではないかと思われる。信者は媽祖に参拝するとき、水の入ったペットボトル(キャップを取る)キャンディー、菓子折りなどを持っていき、紙銭とともに廟内の供物台に一定時間置いておく。参拝を終えた後、信者たちはそれらを家に持ち帰り、媽祖の霊力を帯びた特別な食品としてそれを食べたり、人におすそ分けしたりするのである。
このように、物に霊力が宿るという考え方は、フェティシズムとして人類文化に共通するものではあるが、より詳細に観察してみると、台湾漢人特有の現象や現代台湾の消費文化の一部としての宗教文化の中で生まれてきた新しい現象が見られるのではないかと考える。この問題については、今後も注目していきたい。20日午後は鎮瀾宮が運営する文化大楼で、福建の祖廟から贈呈されたり、収集されたりした媽祖関連文物を閲覧した。 (志賀市子)
海外調査(台湾) 【 台湾蘭嶼の景観と関連資料 】
日程: 2010年12月25日(金)〜31日(土)
実施地: 台湾・台北市、新北市、台東県蘭嶼郷
実施者: 角南聡一郎
蘭嶼のヤミ族は戦前、鹿野忠雄、瀬川孝吉により調査がなされ、戦後アチックの支援により写真を多用した民族誌が刊行された。本調査では、ここで紹介された蘭嶼の景観や住民の生活様式がどのように変化したのかを観察した。また、ヤミ族に関る戦後の研究に関する文献資料を台湾大学図書館などで収集した。 (角南総一郎)
海外調査(台湾) 【 台湾屏東パイワン族集落調査 】
日程: 2010年12月26日(土)~12月29日(火)
実施地: 台湾屏東県泰武郷および瑪家郷
実施者: 小熊誠ほか 他班メンバー8名
常民文化研究所所蔵アチックフィルムのパイワン族調査部分についての確認調査。高城班4名、泉水班2名それに佐野賢治委員長を加え、合計9名で、12月27日、屏東県泰武郷公所に集合。現地連絡を行政院原住民族委員会文化園区管理局の林志仁氏にお願いした。現地通訳および現地案内は、前牡丹郷長の華阿財氏に担当いただいた。
泰武公所では、古老の村里義治氏(大正12年生)などに映像を見ていただいてインタビュー。公所には、パイワン族に関する民俗展示があり、参観した。その後、カビアン社(佳平)が1942年に移動した集落跡を巡見。さらに、それ以前の集落跡を巡見した。そこには、スレートの石造家屋が廃屋として残されていた。頭目の家屋だけは復元されていた。従来のパイワン族の習慣は、家族が亡くなると家屋内の入り口近くに遺体を埋めた。今でも、祖先が埋まっている。日本統治時代に当時の政府によって集落移動を強制された一つの理由は、この風習を止めさせることであった。しかし、現在、年に一度麓に移住した子孫たちが、この廃屋に戻ってきて、自分たちの祖先祭祀を行なっている。集落移動、葬制・墓制の変化、祖先祭祀の変化、霊魂観の問題などを含めて今後調査が可能だと思われる。午後3時から、泰武村クワルス社でインタヴュー。近年のコーヒー栽培が、日本時代日本人によるアラビカ種の栽培を継承している点が興味深かった。
12月28日、瑪家郷(旧バクヒョウ社)調査。村の伝説が豊富に語られている。しかし、古老も高齢で、伝説調査も時間の問題と思われる。董文明村長の案内で、頭目の家でインタビュー。この集落は、移動していない。しかし、若者は就職や生活のために麓の集落に住んでおり、この集落は高齢者ばかりとなってしまった。まだ、山の生活をしている。この調査も時間の問題である。午後は、原住民文化園区の見学。原住民の歴史や生活をモチーフとした円形舞台ショーのレベルが高かった。(小熊誠)
写真上段左より右下へ
①泰武郷公所村里義治氏、華阿財氏(中央)
②カビアン旧集落の頭目の家の前で説明する華阿財氏
③クワルス社酋長珈琲屋で調査する高城先生
④クワルス社での記念撮影
⑤バクヒョウ社頭目の家調査記念撮影
⑥バクヒョウ調査記念写真
⑦台湾原住民族文化園区記念撮影