共同研究

5-1.第二次大戦中および占領期の民族学・文化人類学

平成23年度 第4回共同研究会

日 程 : 2011 年12月22日
開催地:  神奈川大学
参加者: 清水昭俊、中生勝美、坂野徹、菊地暁、泉水英計

 次年度の国際シンポジウム・公開研究会の計画について検討し、また、振興会資料翻刻・出版について作業状況の確認をした。 (泉水 英計)

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資料調査(常民研) 【 民族学振興会資料調査 】

実施日: 2011年12月12日(月)
訪問先: 神奈川大学日本常民文化研究所
実施者: 中生勝美・谷口陽子・色音

 民族学振興会図書に含まれるモンゴル関連資料の調査のために中国社会科学院民族学与人類学研究所より色音氏が来訪した。これに合わせ、文書を含む振興会資料の整理状況を点検するとともに、直近の民俗学・文化人類学史研究について意見交換をおこなった。 (谷口陽子)

常民文化研究所共同研究室にて 右より中生、色音、谷口、泉水



写真左: 常民文化研究所共同研究室にて 右より中生、色音、谷口、泉水

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資料調査(常民研)【 民族学振興会資料 アイヌ民族綜合調査関係および財団寄付行為の閲覧調査 】

日程: 2011年11月11日(金)
場所: 神奈川大学 国際常民文化研究機構研究室
実施者: 清水昭俊

 当日の作業の一つのテーマは、財團法人民族學協會の名称変更を跡づけることである。国立の民族研究所の設置が内定したのを受けて(実際の設置は1943年)、その外郭団体として民族學協會が1942年に設立された。敗戦によって民族研究所は廃止となり、財団は翌1946年に「財團法人日本民族學協會」の名で会誌『民族學研究』の刊行を再開したが、財団の名称変更については説明がなく、この変更の時期と理由が(私にとっては)謎だった。この日に閲覧した資料によれば、財団は設立後たびたび寄付行為の変更を申請し、認可を受けていた。ただし、「財團法人日本民族學協會」の名称変更を公式に申請したのは、昭和27(1952)年1月であり、変更理由は「國際學會との連絡の必要があるので」であった。これによって、この間1946年以来名乗っていた「財團法人日本民族學協會」は自称の通称であって、公式名はなお「財團法人民族學協會」だったことが判明した。 (清水昭俊)

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調査(山口県周防大島町および下関市) 【宮本常一および金関丈夫に関係する現地調査】

日程:2011年10月30日(日)〜11月1日(火)
訪問先:周防大島文化交流センター、土井が浜遺跡・人類学ミュージアム
参加者:泉水英計、坂野徹

金関丈夫の碑(土井が浜遺跡・人類学ミュージアム)

 今回は、山口県周防大島町東和総合センターで民具学会研究大会が開催された(10月29・30日)のに合わせて、戦時中から占領期にかけての日本の人類諸科学(民族学、民俗学、自然人類学)に大きな足跡を残した宮本常一および金関丈夫に関係する現地調査を行った。
 主な訪問先と調査の概要は以下の通りである。
(1) 民具学会のエクスカーションに参加して、民俗学者・宮本常一らが収集した民具収蔵庫(東和収蔵庫、久賀歴史民俗資料館)を見学した。
(2) 明治期以来多くのハワイ移民を産んだ周防大島の歴史資料を展示する日本ハワイ移民資料館を見学した。
(3) 周防大島文化交流センターを訪問し、学芸員・高木康伸氏の案内によって閉架の宮本蔵書庫内において資料閲覧および資料調査を実施した。
(4) 人類学者・金関丈夫が大量の弥生人骨を発掘調査(1953年〜)したことで知られる山口県土井が浜遺跡に設立された土井が浜遺跡・人類学ミュージアムの見学を行った。
 調査に際しては、とりわけ周防大島文化交流センター学芸員・高木康伸氏の全面的なご協力をいただいた。記して感謝する。  (坂野 徹)

土井が浜遺跡・人類学ミュージアムに展示されている弥生人骨 東和収蔵庫(久賀歴史民俗資料館)に展示されている樽

写真上段: 金関丈夫の碑(土井が浜遺跡・人類学ミュージアム) 
写真下段左: 土井が浜遺跡・人類学ミュージアムに展示されている弥生人骨
写真下段右: 東和収蔵庫(久賀歴史民俗資料館)に展示されている樽 

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平成23年度 第3回共同研究会

日程: 2011年 7月 28日
場所: 神奈川大学 横浜キャンパス
参加者: 王京、清水昭俊、坂野徹、菊地暁、木名瀬高嗣、泉水英計

① 泉水より、民族研究講座翻刻出版に必要な著作権処理の進捗状況について、遺族からの同意回答が6件、依頼状を発送したが宛先不明により返送されたのが8件、情報不足のため依頼書の発送に至らないのが9件、その他1件という報告があり、今後の作業の検討をした。

② 菊地氏より、京都大学所蔵の民研本について保存と整理の現状について報告があった。

③ 外交資料館にて中生氏が最近発掘した岡正雄の文書の複写が届き、これを回覧した。ドイツの民族学博物館の現況を報告し、日本に同様の機関を設立するよう各所へ働きかけるための文書が中心であり、網羅的・継続的に綴られていて資料的価値が高い。

④ 調査来日中の研究協力者王京氏(北京大学)が、「戦前期における日中民俗学の関わり」について研究発表があった。具体的な内容はレジメのとおり。その後、日本民俗学との人的繋がりや、20世紀の東アジア史における位置づけなどをめぐって盛んな質疑応答があった。 (泉水 英計)

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資料調査(京都大学) 【民族研究所旧蔵書に関する調査】

日程: 2011年 6月 27日 (月)~  6月 29日 (水)
訪問先: 京都大学付属図書館および文学部図書館 (京都市左京区吉田本町)
実施者: 菊地暁、泉水英計

 6月28・29日の両日、京都大学付属図書館および文学部図書館にて民族研究所旧蔵書について調査した。この「民研本」の概要は本年3月の予備的調査の報告に記したので割愛し、個別に確認できた事項について以下に述べる。
 「民研本」の明確な記録は図書館史にある。1946年4月に、民族研究所の所管であった図書9,644冊が京都大学へ移管され、そのうちの3,150冊が米田文庫だという(『京都大学付属図書館六十年史』87頁)。米田文庫は「さきに民族研究所が購入したものが、研究所の廃止とともに本学部(=文学部)に移管された」ものだという(『京都大学文学部五十年史』285頁)。米田庄太郎(1873-1945)は京都帝国大学で社会学を講じ、民族研究所所長となる高田保馬はその教え子であった。高田の縁で東京へ行った米田蔵書は、やはり彼の縁で他の民研本とともに京都に戻ったが、高名な元教官の蔵書であることから文庫化されたと考えられる。
 文学部図書館の米田文庫書架を実見してみると、和書38棚、洋書50棚ほどがあり、洋書の多くに「米田蔵書」印と「民族研究所図書室」印の両方が捺印されているのを確認できる。19世紀から20世紀にかけての欧米の理論社会学が米田文庫の特徴だといわれているのと一致するが、和書に「民族研究所図書室」印がみられない理由は不明。また、「京都帝国大学図書館」印と「京都大学図書館」印の混在もみとめられた。
 京都大学の「民研本」に言及した今ひとつの記録は1946年8月19日付SCAP/GHQ覚書「中華民国より摂取された図書返還について」である。「終戦時東京の民族研究所の手にあったが現在は京都帝国大学にあるものといわれている」書籍33,036冊について1箇月間で調査して目録を中央終戦連絡事務局に提出するよう命じている(『終戦教育事務処理提要』第3集, 225-227頁)。内訳は中山大学(広東)11,180冊、南開大学(天津)10,714冊、王立亜細亜協会(上海)10,591冊、その他551冊とあり、詳しい調査があったことが推察できる。
 しかし、民族研究所を経由しない別のルートで京都大学に入り占領期に中国に返還された書籍もあり(金丸裕一「戦時江南図書『略奪説』誕生の歴史的背景」29頁, 鞆谷純一「日本陸軍の図書接収活動」55頁)、接収・略奪と返還について全体の流れを把握するのは難しい。4月に移管された9,644冊と、8月に調査を命じられた33,036冊がどのような関係にあるか、先行研究(松本剛『略奪した文化』24頁)でも疑問視されている点であるが、依然不明である。この度の調査の主な対象は京大付属図書館内に未整理のまま保管されていた雑誌類であるが、これらの記録に残る冊子数に含まれているのか否かは不明である。
 「民研本」とおぼしき雑誌は中型の書架に12棚ほどの量である。全てではないが、「民族研究所」所名ラベルおよび雑誌書誌ラベル「雑+番号」が貼られている。このようなラベルがなくとも、写真Aのような「民族研究所図書室」印が押されていることが多い。また写真Bのように、蔵書印には受け入れ年月日を示したスタイルもある。写真Cの冊子は社団法人電気倶楽部から民族研究所に移管されたものであることが蔵書印からわかる。同様にして、写真Dの冊子は元々は北平師範大学の児童図書室に贈られたものであることがわかる。
 現在でも容易に入手可能な内外の有名学術雑誌や経済雑誌が目立つが、漢籍地誌や戦時中の大東亜共栄圏地図など(写真E, F)も混じる。また、戦前戦中の大陸で刊行された雑誌・報告書など(写真G, H)が散見されるが、これらは稀少なものと推察する。目録採りと整理は、菊地が引き続き定期的におこなっている。 (菊地暁・泉水英計)

写真A写真B写真A、B 
写真C写真D写真C、D 
写真E写真F写真E、F 
写真G写真H写真G、H

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平成23年度 第2回共同研究会

日程: 2011年6月4日
場所: 神奈川大学国際常民文化研究機構
参加者: 清水 昭俊、坂野 徹、菊地 暁、木名瀬 高嗣、泉水 英計

共同研究者の清水昭俊氏と岡千曲氏

 20世紀中葉の日本の民族学を主導した岡正雄について、その長男の岡千曲(おか・ちくま)氏を機構共同研究室にむかえ、随時参加メンバからの質問に答えていただく形式で、父親の学問と人となりについて語ってもらった。
 聞き取りでは、岡正雄の学説や関心領域の変遷、これと連動した「エトノス」などの鍵概念の変化、また、学界や政界での人脈について質疑応答が盛んに繰り返された。千曲氏自身も昨春まで相模女子大で教鞭を執っていた文化人類学者であるため、とくに学説史上の岡正雄の位置づけについては、単純な聞き書きというよりは、研究者同士の議論の様相を帯びた。旧邸宅の近隣の様子や、旧出版承諾書に署名する岡千曲氏陸海軍における兄弟の活躍など、家族ならでのエピソードも興味深かった。私的な情報のようでもあるが、戦中期には民族学・人類学の有用性をうったえて活躍した岡正雄の行動を正確に把握するうえで貴重な情報であった。 

出版承諾書に署名する岡千曲氏

 なお、1982年に他界した岡正雄の相続人である千曲氏には、著作物の出版・転載及び電子出版について、この機会に承諾をいただいた。 (泉水 英計)

写真上: お招きした岡千曲氏(右)と共同研究者の清水昭俊氏
写真右: 出版承諾書に署名する岡千曲氏

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平成23年度 第1回共同研究会

日程:  2011年 4月23日(土)
場所: 神奈川大学 国際常民文化研究機構
参加者: 清水昭俊、中生勝美、坂野徹、高倉浩樹、菊地暁、谷口陽子、泉水英計

 2011年度の第1回研究会を開催し、昨年度の活動報告および今年度の具体的な活動計画の点検をおこなった。報告事項は、(1)「民族講座」の速記録に関する著作権処理の進捗状況、(2)常民文化研究所の「振興会資料目録」の公開と文化人類学会の振興会資料画像データほか。審議事項は、(1)著作権処理に関する具体的な作業の策定、(2)共同研究の成果公表など。 (泉水英計)

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調査(熊本県 旧須恵村) 【戦前のアメリカ人人類学者による日本研究に関する現地調査】

日程: 2011年3月11日(木)~3月14日(月)
訪問先: 須恵文化ホール、旧須恵村のジョン・エンブリー関連地、山江村郷土資料館、人吉城址歴史館
参加者: 泉水英計、菊地暁、谷口陽子

球磨川にかかる川瀬橋から旧須恵村を望む

熊本県球磨郡旧須恵村(現あさぎり町須恵)は、第二次大戦前の日本で村落調査を実施した唯一の米国人人類学者であるジョン・エンブリーの著書『日本の村 須恵村』で知られ、また同書は戦中および戦後の米国文化人類学者による日本研究の基本文献とされたことでも知られている。今回の調査では、旧須恵村におけるエンブリーの調査の足跡と、彼の死後も約50年にわたって続いた村と元夫人との交流についての現地調査を実施した。

訪問先と調査の概要は次のとおりである。
(1) 須恵文化ホールにおいて、1935年から1936年に旧須恵村に滞在したエンブリー撮影による写真、およびエンブリー没後に旧須恵村で行われた追悼式、エンブリー夫妻来村50周年記念式典、1994年10月開催の熊本県民文化祭人吉球磨で旧須恵村が行った展示「エンブリー博士記念館」に関する資料の閲覧と収集。
(2) エンブリーの住宅跡(1998年建立)を中心とした関連地の探訪。
(3) 旧須恵村の郷土誌の執筆者、およびエンブリー元夫人と親交のあった人物への聞き取り。
(4) 球磨郡山江村の山江村郷土資料館、および同村山田地区の国指定の重要文化財の見学。
(5) 球磨郡人吉市の人吉城址歴史館の見学。

調査に際しては、あさぎり町教育委員会のご協力をいただいた。 (谷口陽子)

エンブリーが村に寄贈したという半鐘 エンブリー住居跡地の碑(1998年建立)

写真上段より下段右下へ
・球磨川にかかる川瀬橋から旧須恵村を望む
・エンブリーが村に寄贈したという半鐘
・エンブリー住居跡地の碑(1998年建立)

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調査(京都大学)

日程: 2011年 3月 9日 (水) ~ 3月 13日 (日) 
訪問先: 京都大学図書館
参加者: 泉水英計、菊地暁、谷口陽子

 1943年1月に文部省直轄の民族研究所が開設されるが、これに先だって日本民族学会は財団法人民族学協会に改組され、研究所の協力外郭団体となった。1945年春になり、東京の空襲が激しくなると、研究所は彦根工業専門学校へと移転し、協会もまた所蔵品を同所に疎開させる。敗戦後、10月に研究所は廃止されるが、その所管図書は翌年4月に、高田保馬元所長の所属先である京都大学へ移管された。一方、協会が疎開させていた荷物は同年10月までに東京に戻されている(中生勝美「民族研究所の組織と活動」)。

東アジア人文情報学センター所蔵庫

協会が疎開先から戻した荷物には蔵書類が当然含まれていたはずで、その後1999年10月の民族学振興会解散まで、そこに逐次累加されていったものが、神奈川大学日本常民文化研究所が現在所有する民族学振興会蔵書である。新刊のみが購入されたわけではないので目安に過ぎないが、民族学振興会蔵書のうち敗戦前までに出版されたものは3,785点である。これらの書籍と、京都大学に移管された民族学研究所旧蔵書との関係を明らかにする準備として、収蔵状態の実見をおこなった。
 民族研究所からの移管書籍は文学部図書室の地階に一括して配架されていた。破損の進んだものが多いため複写は禁じられているが、学内者には自由な閲覧が許されていた。目録は提供されていない。特殊文庫「民研本」の説明によれば総数は6,440冊で、一部はOPACに入力済みである。大学蔵書検索(KULINE)の詳細検索画面から「民研本*」という請求記号を指定する方法で把握できる移管書籍の総数は1787点であった。

民研本と推測される資料

 1946年4月には9,644冊が移管され、うち3,150冊は米田庄太郎文庫となったという記録があり(『京都大学付属図書館六十年史』『京都大学文学部五十年史』)、50冊ほどの食い違いがあるが特殊文庫の説明とほぼ一致する。しかし、上記中生論文に指摘のある1946年8月のSCAPの覚書によれば、中華民国から接収されて研究所に送られ、1946年8月に京都大学にあるといわれている図書は33,036冊であり、桁違いに多い。これに関連して、鞆谷純一氏の最近の研究によれば、占領期に「略奪図書」として京都大学から返還された「民族研究所移管図書」の総数は36,479冊であったという(『日本図書館情報学会誌』56-3)。これらの数字の食い違いの説明については、さらなる情報収集を期したい。
 民族学振興会資料と必ずしも直接的関係はないが日本の民族学・人類学の歴史と深く関わる所蔵として、付属図書館に山岳部寄贈図書、人文科学研究所図書室に「旧人文コレクション」、東アジア人文情報研究センター図書室に海外調査収集物および資料、また国際学会関連資料などがあり、あわせて実見した。 (菊地暁・泉水英計)

写真上段より
.京都大学人文科学研究所・東アジア人文情報学センター所蔵庫
・民研本と推測される資料

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調査(奥能登)

日程: 2011年2月8日-12日
訪問先: 石川県立図書館、輪島市三井、珠洲市火宮、穴水町藤巻、能登町柳田
実施者: 菊地 暁

 1952年から翌年にかけておこなわれた九学会連合による能登調査の検証を進めるため、具体的な調査地の幾つかを実地見分し、かつ、石川県立図書館所蔵の関連資料を確認した。九学会調査時に注目を集めた同地域の農耕儀礼「アエノコト」が、2009年のユネスコ世界無形文化遺産登録を機に復活の兆しをみせ、その際、九学会調査以来の民俗誌記述が行事復興に活用されていることが確認された。 (菊地 暁)

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資料調査(国立国会図書館) 【 民族研究所主催民族研究講座の講師履歴と著作権者調査 】

日程: 2011年 2月 1日(火)
訪問先: 国立国会図書館
実施者: 中生勝美、窪田涼子

 1943年1月に、国立の民族研究所が東京に開設され、大東亜共栄圏の民族政策の企画立案をしていた。
 民族研究所の活動は、調査研究活動とともに、一般大衆への啓蒙活動があった。そのため、民族学研究講座という公開講座を主催した。第1回は概説、第2回は民族問題及民族政策、第3回は支那及印度民族学、第4回は欧米民族学、第5回は北亜・中亜及西亜民族学、第6回は南方圏民族学で、その講師陣は民族研究所員を中心に、のべ42人が、世界中の民族を地域ごとに講義している。
 民族学振興会から神奈川大学常民研究所に寄託された資料の中に、当時の講座の速記録があった。この速記録は、当時の民族研究の水準を把握する上で、きわめて重要な資料である。この資料の公開に向けて、昨年より著作権に詳しい弁護士への相談しており、著作権継承者を探すことが必要であった。
 今回、国会図書館にて、最新の著作権台帳、古い文化人名録、人名辞典で、原稿が残っている講師の経歴、住所、著作権継承者の調査を行った。調査対象者31人中、27名は何からの手がかりを得た。著作権継承者の住所、電話が判明した講師に対しては、速記録の公開に向けて交渉を始め、古い住所が判明した講師は、弁護士、あるいは司法書士の有資格者による戸籍、住民票調査による著作権継承者の調査を次年度に行いたい。4人は全く手がかりがなく、著作権者探査の公示という手段を考えたい。  (中生勝美)

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海外調査(パラオ共和国) 【 パラオにおける日本/アメリカの人類学関連の現地調査 】

日程: 2011年 1月 28日 (金)~ 2月 1日(火)    
調査訪問先: ベラウ国立博物館、パラオ国立公文書館、エピソン博物館(以上コロール島)、バベルダオブ島
調査参加者: 泉水英計、木名瀬高嗣、菊地暁、坂野徹

 日本統治時代、南洋群島の施政機関(南洋庁)が置かれたパラオ諸島コロール(現パラオ共和国)では、日本の民族学者・人類学者が現地調査を行うとともに、1945年以降はアメリカの文化人類学者がCIMA(ミクロネシア人類学共同調査)を実施したことが知られる。今回の海外調査では、こうした戦前の日本民族学および戦後のアメリカ文化人類学によるパラオ調査の足跡をたどるとともに、現地アーカイブにおける資料調査を行った。

ベラウ国立博物館調査資料室(日本統治時代の観測所庁舎)

具体的な訪問先と調査の概要は以下の通りである。
(1) ベラウ国立博物館(コロール)において、パラオにおける日本統治時代およびアメリカ信託統治時代の展示資料見学。
(2) ベラウ国立博物館(コロール)に併設されている調査資料室において日本統治時代およびアメリカ信託統治時代に関する文献資料調査。
(3)  私設エピソン博物館において、パラオの伝統文化に関わる展示資料を見学。
(4) コロール市内各地に残る日本統治時代の建造物の実地調査(パラオ支庁、南洋庁パラオ医院本館、南洋庁観測所、パラオ熱帯生物研究所、南洋神社等)。

パラオ支庁(現パラオ最高裁判所)

(5) 戦前の民族学者が調査したバオルダオブ島各地に残るア・バイ(伝統的な集会所)パラオ支庁(現パラオ最高裁判所)の実地調査。
(6) 戦前、民族学者や考古学者による現地調査が実施された古代遺跡(バベルダオブ島ストーン・フェイス等)の実地調査。
(7) パラオの固有宗教であるモデクゲイについての聞き取り調査(バベルダオブ島イバボン)

 調査に際しては、飯高伸五氏(日本学術振興会特別研究員PD)が紹介くださったコロール在住の金城フミ子さんに現地案内者の紹介等の労をとっていただいた。
(坂野 徹)

ア・バイ(バベルダオブ島)

写真上段より: 
ベラウ国立博物館調査資料室(日本統治時代の観測所庁舎)
パラオ支庁(現パラオ最高裁判所)
バオルダオブ島各地に残るア・バイ(伝統的な集会所)

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調査(東京) 【 成城大学民俗学研究所柳田文庫調査 】

日程: 2011年1月14日(金)-15日(土)
訪問先: 成城大学民俗学研究所
実施者: 菊地暁

 成城大学民俗学研究所に所蔵される柳田国男旧蔵図書の書込を調査した。にひなめ研究会編『新嘗の研究』(1953)所収の馬淵東一(台湾)、杉浦健一(ミクロネシア)、松本信広(東南アジア)、秋葉隆(朝鮮)らの論考に多数の傍点線等の書込がなされていることから、当時の柳田における比較民俗学的志向を考察する端緒が得られた。  (菊池暁)

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調査(台湾) 【 パイワン村追跡調査(屏東県泰武郷)および国分直一文庫実見(台湾大学図書館)】

日程:2010年12月25日 (土)~ 12月31日(金) 
実施地: 台湾屏東県泰武郷、パイワン族文化村、台湾大学図書館
参加者: 中生勝美・菊地暁・泉水英計

パイワン村落跡

 アチックの映像資料にある台湾パイワン族関係の映像の撮影地を再訪し、撮影場所、映像情報についての聞き書きをした。また、台湾大学図書館に寄贈された「国分直一文庫」の資料整理の状況と、資料の保存状況を調査した。
 アチック同人撮影の台湾原住民に関する映像の追跡調査をするため、高雄から屏東のパイワン族の集落で聞き取りを行った。台湾では1990年代から原住民の文化復興運動が盛んになり、政府も地方の文化館建設に予算をつけたので、訪問した集落も立派な文化館が建設されていた。一階には集会場と図書館、二階には地元文化の展示室があった。日本語のわかる老人が待っていてくれた。聞き取りが始まり、映像をパソコンで見せながら調査をしていたが、壁にスクリーンがあるのを見かけたので準備してもらい、大画面で映像をみながら、随時質問をして、映像の内容や場所を解説してもらった。翌日は、画像を印刷した紙媒体で調査をしたが、映像のリアリティが異なり、見えにくく、聞き取りはうまくいかなかった。

泰武村の教会

教会も賛美歌や祈りの言葉は液晶プロジェクターで投影するので、教会でのインタビューも考えたが、この集落は、牧師が常駐していなかったので、大画面での調査は不可能であった。パイワン族の古い集落跡にも案内してもらったが、1930年代と1960年代に集落の強制移住があり、古い集落を故郷として祖先祭祀の場所として訪れていることがわかった。
 文化館のようなところで、昔の映像の映写会という名目で集落の人を広く集め、故老や地元の地方史研究者にみてもらい、シンポジウム形式で上映すれば、民族誌映像の地元還元としても有益である。課題として、そうした映像資料を地元の文化館や歴史資料館に寄贈できるかどうかを検討し、現地の研究者や伝統文化復興運動家たちにも利用できるようにすべきであろう。
 台北では、国立台湾大学の国分直一文庫の整理状況を視察した。2010年春の受け入れにも関わらず、迅速に整理が進められていた。蔵書(刊行物)は、すでに整理が終わり配架されて一般の閲覧に供されていた。文書(原稿・手紙・フィールドノートなど)および写真類はまだ整理中の状態であったが、一部閲覧させていただいた。膨大な資料をほとんど廃棄せずに取ってあり、極めて貴重な史料であることが判明した。図書館長ほか担当者との懇談によれば、2011年9月に国分文庫の公開を祝した記念シンポジウムが開催される予定である。 (中生勝美)

国分直一文庫(フィールドノート) 国分直一文庫(写真類)

写真上段より
・パイワン村落跡
・泰武村の教会
・国分直一文庫(フィールドノート)
・国分直一文庫(写真類)

☞ 台湾調査の関連報告はこちら ①

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